日本の夏

 
 

「暑いね佐藤さん。いやになるね。日本の夏は・・・」と、なじみの店の女将がいうので、

「ゼン・ゼン」と真田広之の酒のCMのように言った。

「心頭滅却すれば、火も又涼し」という言葉があるが、夏は暑いのが当たり前と思えば、別にこのぐらいの暑さは平気である。

確かに日本の夏は蒸し暑い。何をしなくても外に行けば自然に汗がにじみ出てくる。少し歩きでもしたら、それこそ汗が滴ってくるほどだ。

しかし最近私は、汗をかきながらも、自分の体が、「暑さ」というものに体が適応しているのを感じ始めている。別に我慢大会をしているつもりはないが、人間の適応力は、そんなにヤワではないということだ。「暑い・暑い」と思うから余計に暑く感じてしまう。これが普通、夏は暑いと季節に感応し適応すれば、別に暑いとは感じなくなってしまう自分に気が付いてきたのである。

だから先の女将の「暑さの感覚を助長するような言葉に対して「ゼン・ゼン」と答えたのである。もしここで、私が「確かに暑いですね。まったくたまんないですね。この夏、カナダにでも大橋巨泉のように逃げたいね」と言ったら、せっかく自分の中で芽生えてきた、暑さに対する適合の感覚を捨てることにつながっていくのである。要するに女将の言葉は私にとって「悪魔の囁き」に等しい言葉なのだ。

ものは考えよう、心の持ちよう、ひとつである。蒸し暑い日本はまっぴらと、夏の日本を避けて、オーストラリアとカナダの本拠としている大橋巨泉のような変わり者がいるが、どうかと思う。日本が好きだったら、暑かろうが寒かろうが、全部味わってこそ意味がある。

楽しむだけが人生ではない。四季だって同じだ。猛暑があり、癒しの秋が来て、余計に秋の味わいが増すというものだ。極寒の冬があり、春の花々の目覚めがたまらなくうれしいのだ。

居住ということに快適さだけを求める巨泉の生き方を、理想の老いの過ごし方と思っている人もいるようだ。しかしよくよく考えて見れば、彼の考え方は、どこかおかしい。巨泉には、知ったかぶって、人生を語るな、日本の四季を語るな、と言いたい。日本の夏は、猛烈に蒸し暑いからこそいいのだ。佐藤
 


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2000.8.2