の節句と

雛祭り小論

 
今日は、雛祭りである。桃の節句とも呼ぶ。女の子の祭りである。古来より、女の子がいる家では、雛壇を飾り、桃の花を生け、甘酒を飲み、チラシ鮨やお萩を食べて娘の健やかな成長を願ったもののようだ。

芭蕉の「奥の細道」の最初の最初の句が、

草の戸も住み替る代ぞ雛の家”である。

これを意訳すればこのようになるだろうか。

私の草に埋もれた庵も主が代わる時がきた。今度の主にはかわいい女の子がいて、きっと今頃は雛の祭りでもして華やいでいるのだろうか。

雛祭りを、何故桃の節句というかと云えば、桃の実が、悪霊や邪鬼を払う霊力があるものと古来より考えられてきたからである。桃は確かに愛らしい花だ。以前桃は食べるというよりは、その優しい桃色の花びらを愛でるためのものであったようだ。中国には桃源郷(とうげんきょう)などという言葉もあるが、元々桃は中国の原産で、鬼を払う霊力があると考えられてきた

日本最古の歴史書である古事記のなかに、こんな下りがある。

「(イザナギノミコトが)坂本にある桃子(もものみ)三箇をとりて、待ち撃てば、ことごとく逃げかえりき。ここにイザナギミコト、その桃子に告げたまいて、汝われを助けしが如く、葦原中国(あしはらのなかつくに)の青人が草の苦しき瀬に落ちて患(うれ)い悩む時、助くべし、と告げて、オホカムズミノミコトの名を号し賜う

これを意訳するとこのようになる。

イザナギノミコトが亡くなった妻のイザナミノミコトが忘れられずに、黄泉の国(よみのくに=死者の国、あの世)に向かったみたが、既にそこには怖ろしい化け物に変身したイザナミがいた。その怖ろしい形相を見てしまったイザナギが驚いて逃げようとすると、「よくも私に恥をかかせたわね」と言って、イザナミは、黄泉の国の軍隊1500人を差し向けて追ってきた。そこでイザナギは十拳剣(とつかのつるぎ)を散々に振るって、逃げて坂本というところに差し掛かった時、そこにあった桃の実三個を取って共に戦えば、たちまちのうちに撃退することができたのであった。そこで喜んだイザナギは、私を助けたように、これからも私の家来となって、私の若い皇子達を補佐してくれないか、といってオオカムズミノミコトの名を授けたのであった。

更にこの物語が、日本書紀になるとこのように変化する。

道の辺に大いなる桃の樹あり。イザナギノミコト、その樹の下に隠れて、その実をとりて雷(いかずち)に投げれば、雷どもみな退きぬ。これ桃を用いて鬼をふせぐ縁(こともと)なり。

これを意訳すればこのようになる。

逃げるイザナギは道のほとりにある大きな桃の木の下に隠れた。そこでイザナギはその桃の実を取ってイカズチというイザナミの家来達にこれを投げつけて戦いこれを撃退した。この逸話が、桃を用いて鬼どもを撃退することの始まりである。

通説によれば、古事記が完成したのが712年(和銅五年)。日本書紀は、720年(養老四年)である。このように桃に関する表現も変化し、後に日本の代表的な昔話である「桃太郎」や「御伽草子」の中の義経伝説「御曹司島渡り」へと生成発展していくことになるのであろうか。(「御曹司島渡り」は、後の義経北行伝説の原型とも考えられる)

とりわけ桃から生まれたという奇妙な出生の秘密を持つ桃太郎の成功談は、鬼ヶ島に行って鬼達を退治し、その宝を持ち帰ってくるという、鬼達から見れば、自国の侵略を正当化されたような実に困った征服と服従のおとぎ話となる。

もうひとつ、日本の昔話に、「蛇の婿入り」という話がある。これによれば、婿が蛇だと知らずに結婚した娘が、お腹の子が蛇の子と知って、桃から造った酒を呑んで蛇の子を溶かしてしまう。ここでも桃は、異なる者を共同体に入れないような役割を果たす力を発揮するのである。

二月の節分同様、三月三日の桃の節句もどうやら、鬼にまつわる祭りのようである。どうみても鬼を払い、撃退するための祭りだったことは明らかだ。そう言えば、東北の悪路王や高丸伝説も、鬼にさらわれたお姫様の救出劇であり、結局は桃太郎と同じ、鬼退治物語そのものである。さしずめ坂上田村麻呂は、正史の中の桃太郎とも言うべき存在であったことになる。

どうやらこのように考えて来ると雛祭りは、自分の大切な娘がすくすくと育てとの願いを込めた祭りのようであるが、もう少しズバリと言えば、異人としての鬼などにかわいいわが娘を取られぬために桃の霊力にあやかり、併せて家族と村々(共同体)の平安を願う季節暦(せちごよみ)であったと言えるだろう。

さてその意味で芭蕉の「奥の細道」への旅は、ひょっとしたら、かつての「鬼の里」(陸奥)見たさの決死の旅(?)であったかもしれない。佐藤

 


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2000.3.3