ミケランジェロは何を彫ったのか?

ミケランジェロ小論

ミケランジェロ作 ダビデ像
Firenze, Galleria dell'Accademia
 

人の人生は、彫刻に似ている。彫刻とは、目の前の石の本質を見つめ、具体的なイメージをもって、石をひとつの形(意味あるもの)に仕上げることである。

その意味でも、我々人間は、自分という原石にノミを入れる彫刻家である。

彫刻家ミケランジェロは言っている。「石をじっと観ていると、石が、”このように自分を彫ってくれ”と語っているような気がしてくる」と。つまりミケランジェロは、石の本質をみて、その石にあった形を削り出しているのである。

人は誰も、ミケランジェロ(彫刻家)である。自分という原石を自分らしく削り出すミケランジェロなのである。元々人は、”このようにありたい”という何らかの意志を持って生まれてきているはずだ。だからこの世に生まれ出た人間で、無駄な人間というものはない。それが人間の本質なのである。ところがほとんどの人は、”このようにありたい”という本来の意志を意識していないところに問題がある。

たとえ、神戸で幼なじみの小学生を殺害した少年にしたって、人々の心に何かを考えさせ、訴えかけるメッセージを残したことで、その存在の意義はある。もちろんこれは彼の犯した犯罪を正当化するための弁護の論理では毛頭ない。

少年は、自分の彫刻に失敗した人間だ。彼の悲劇は、自分本来の本質を、間違って解釈(意識)してしまったところから始まった。これは一種の悲劇である。彼は自分の凶暴な性格を意識しないまま、間違ったイメージで自分にノミをふるってしまったのだ。つまり自分をあのおぞましき怪物「13日の金曜日」のジェイソンのような像(酒鬼薔薇=サカキバラ)を自らの像と、してしまったのだ。

人は誰も、自分の本質を知らずして、ミケランジェロにはなりえない。まず人生では、全てにおいて自分の本質を理解することが優先されなければならない。

ミケランジェロのつくったダビデ像(写真上)をイメージしてみよう。フィレンツェにあるこのダビデ像は、高さが8mもある巨大な彫刻である。あの気高さ。民衆のために巨大な怪物ゴリアテを射抜くような鋭い眼光。正義感と強靱な意志と勇気。手には、武器としての石つぶてが、しっかりと握りしめられている。まさにダビデ像は、羽仁五郎が名著「ミケランジェロ」で語る如く、フィレンツェ市民の自由と勇気の象徴なのである。

多くの人は、ミケランジェロという人物を巨人と思っている節がある。それは彼の「ビデデ像」や「シェステイナ礼拝堂」の巨大な天井壁画のイメージをもって、そう思っているに過ぎない。実は彼は小男であった。でも多くの人の見方は、結果として間違っていない。彼の心は宇宙にも匹敵する大きさであった。

そして「ダビデ像」は、実はミケランジェロ本人だったかもしれない。彼は自分の本質に似せて、弱い自分を奮い立たせながら、理想化した自分として、あのダビデを彫ったのだ?!だからこそ彼は、単なる彫刻家あるいは芸術家に終わらず、人生の達人となりえたのである。

ミケランジェロは、ある時自分のパトロンでもあったメディチ家の当主ロレンツォの像を彫り上げた。その時、周囲から「この像は、本人にさっぱり似てませんね」と指摘された。

それに対して彼は火のような情熱を持って叫んだ。
冗談じゃない。これがロレンツォだ。5百年もたってみれば、あんたの指摘の意味のなさが証明されるだろう」と、語った。

我々も自分を彫り上げる人生の達人となりたいものだ。佐藤
 


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2000.01.11