水害事故と水の霊力 

-水俣の周囲の山の景観をみて-


 
7月20日未明、九州で集中豪雨のために、土石流や崖崩れなどが発生し、20名を越える死者が出た。とりわけ熊本県の水俣地方では、土石流により、19名の尊い命が犠牲となった。誠に悲しいことだ。

そして水害の度に思うのだが、直ぐに、砂防ダムが弱かったのではないか、という議論に短絡してしまう傾向にある。しかし問題を、もう少し深く掘り下げてみれば、今回のテレビに映った景観を見た時、水俣地方でも、おそらくここ数十年で植林されたと思われる杉の存在であった。杉は早く成長するということで、明治以降急速に日本中の山を席巻した針葉樹であるが、この結果、日本の山で保水力という面で劇的な変化が起こった。日本の山の保水力の変化は、どのように考えても、水害の遠因となっていることは、専門家の一致した見解である。

本来日本の山には、ブナや水ならなど、保水力に富む木が生い茂っていて、降った水を蓄えて、容易に水害を起こさない重要な役割を果たしていた。ちなみにブナの大木一本で、水を2トンほど蓄えられるという話である。それに対して根の弱い杉では、保水力は、その百分の一もない。もしも仮に、水俣地方の山が、以前のような保水力を持つ広葉樹林に覆われていたならば、今回のような悲劇的な出来事はなかった可能性すらある。

そのように考えて行くと、今回の事故が実は天災などというものではなく、国家政府の奨励した杉山植林というものが原因で起きた人災の側面もあるように思う。確かに今では、日本中どこに行っても、古い集落の存在する周囲の山々には、杉ばかりが目立つ有様となってしまった。今後において、この景観の変化を反省し、日本の山が本来持っていた姿に戻す試みをするべきであろうと思うばかりである。
 

さて日本には、古来より「水に流す」という言葉があった。昔から、水には清めの霊力があり、穢れたものを浄め、もの本来の純なるものに戻すと考えられてきた。確かに地球そのものが、水の惑星であり、人間をはじめ動植物のすべての根元は水そのものの中で、発生してきたのである。

インドでは、古来から荼毘に付した後、水葬と言って、ガンジス川にその灰となった遺体を流す風習があり、いまでも続いている。人間の灰を水で根元である海に流してふたたび再生の道を歩ませようとの考え方があるのだろう。水に流すことで、まさに人の死もまた浄められてゆくのである。

しかしこの「水に流す」ということは、口で云うほど容易いことではない。人は、ある時誰かに敵がい心というものを持ったり、恨みのような気持ちを持つと、その想念は、生きている間は、生霊となり、死後には死霊となって、様々な障り(さわり)をもたらすものと信じられている。

かつて日本人は、この障りを祟り(たたり)として極度に怖れた。おそれた結果、この障りや祟りを鎮めるために、神社や寺が造られ、この霊を鎮めることに躍起となった。だから、あの巨大な出雲大社の社殿ですら、国を奪われて滅びてしまったオオクニヌシの一族を厚くお祀りして、その思いを鎮めるために建築されたとみるのが自然だ。こうして考えてみると、どうも人というものは、水になかなか流せないという困った性格をもっていることに気づく。

神社に入るとまず、水を使って、手をすすぎ、口を洗う。これも水に寄る浄めである。また神輿が禊ぎ(みそぎ)と言って、海に入ったり、川に入ったりすることもあるが、これもまた水の霊力を使った、水に流す儀式の一種である。

水の霊力は、時には、荒れ狂い、容赦なく、人の命を奪う災害をもたらすこともある。今回、九州各地で起こった水害もまた水の神秘的な力の為せる技である。そのように人智の及ばぬ大きな力をもった水というものを考える時、人間はもっともっと素直になり、この水というものを征服すると云った生意気な思考は捨て去って、水こそあらゆる生命の太母(たいぼ:グレートマザー)であるという尊敬の念を持ってこれに接することで、本当の意味での「水というものの神秘の力」の御利益を得ることができるのではないかと思う。水俣での尊い帰らぬ命のことを思いつつ、水の霊力を改めて考えてみた次第である。佐藤

 


2003.7.23
 

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