源 義経

三浦周行 著(1871−1931)
 

凡例

1. 底本には、岩波文庫版「新編 歴史と人物」1990年10月刊を使用。

2. この論文は、明治二十六年から大正五年にかけて発表された三浦博士の歴史的人物論の中の一編である。

佐藤弘弥 記

 

一 失敗者の歴史

昔から歴史上の人物で失敗に終わったものの事蹟は、とかく成功者の盛名に蔽われてその真相が湮滅(いんめつ)しやすいものである。殊に敵味方と分かれて相争うた場合では、成功者が故意に失敗者の事実を悪し様に伝えているものが多い。

源義経の如きも、頼朝に対しては失敗者であって、その死は頼朝の迫害に依ったものである。頼朝が文治元(一一八五)年に、全国に守護・地頭を置いたのは、鎌倉幕府の基礎を開いた一大史実と認められているが、それは実に義経および行家の逮捕に都合がよいためにとの理由であった。その後、彼は義経の捜索に向かってその全力を傾けやや常識を失ったかと思われる位である。義経の名が自分の信頼していた関白藤原兼実の息良経と同訓であるのを諱んで義行と改めては見たものの、義経がその踪跡(そうせき)を晦(くら)ましてから後、いかにしても行方の知れぬ処から、全く、義行の名がよく行くという意味合であるからであろうと、さらに縁起のよい義顕(よしあき)の名に改めたなどいう滑稽もある。その間義経の妾静を捕えて、子を生むまで鎌倉に留め置き、生まれた子は育てさせずに殺してしまった。文治五年に藤原泰衡を促して義経を攻めさせ、彼をしてその妻子を手にかけ返す刀に腹掻き切って果てるという悲惨極まる最期を遂げさせたが、頼朝はそれにも満足せず間もなく自ら出馬してさらに泰衡をも誅戮(ちゅうりく)してしまった。この数年来後白河法皇の御召にも応じかねていた頼朝はここにおいてようやく鎌倉を出でて第一回の上洛を行った。彼は義経の死を以て初めてその枕を高うする事ができたのである。

それほどまでに恐れもし悪みもしていた義経の事蹟を、鎌倉幕府の記録によく書いておこう道理がない。義経の真相を知らんと思えば、全く両人のためには局外者であった公卿の日記その他の正確なる史料に拠るのほかはないのである。

 

二 義経の偉勲

頼朝の生涯を前期・後期と分けると、その前期の事業即ち平氏や源義仲を討伐して、後期の幕府設立の基礎を開くに至らしめた事に向かっては、義経は確かにその功労の一半を頒たるべきである。

当時義経は頼朝の代官とし範頼と共に上洛し、間もなく義仲を誅戮し、また平氏をも全滅させた。その間僅かに一年半にも足らぬである。かつ範頼には和田義盛・梶原景時以下の好参謀がついておって万事その指導を受けていたのであるが、義経の方には、一向さような人物が見当たらない。なるほど武蔵坊弁慶はいたに相違いないが、格別の人物であったとも思われぬ。それにしてあれだけの戦功を樹てたのを見れば誰しもただ武勇一点張りの御曹司であったろうとは思うまい。殊に寿永元(一一八二)年二月に義経が京都を出て渡辺から出帆してより僅かに三日目に平氏と屋島に戦ってこれを逐い、それからまた、一ヶ月半にも足らぬ内に壇ノ浦の一大海戦で平氏を殲滅させている。いかに平氏の軍が敗残の弱兵であったといっても、その船も多く兵も少なくなかったのである。範頼は彼に先だって元歴元(一一八四)年の九月から西国に赴き平氏と戦いつつあったがこれを掃蕩する事ができず、船もなければ糧も絶え、部下の将士は甲冑を売って小舟を買うほどの窮状に陥った位である。しかるに義経が迅速に征討の目的を達したのは、決して世間で伝えらるるが如くただ短兵急に敵の不意に出でて奇捷を博したという訳ではなく、苦心惨憺胸中に勝算を立ててこれを行るに一の断を以てしたためで、その戦術に長じていた事は古来名将はあっても余り多く比儔を見出さぬほどであった。後白河法皇の皇子守覚法親王が戦後密かに義経を御召しになって、彼の戦術についての説明を御聴取になったことがあるが、親王は後御自身に義経に対する御感想を左記に御認めになって、

彼の源廷尉はただの勇士にあらざるなり。張良の三略・陳平の六奇、その芸を携えその道を得たる者か。

と仰せられている。これは彼にとっては実に知言と申して然るべきであろうと思う。

義経はまた部下の統御に巧みであった。梶原景時はその専横にして自ら用いた事を悪し様にいっているが、それは多少その気味もあったろう。しかし軍に将たる者は、部下に対して十二分の威厳を保たなければなるまい。平氏にしても源義仲にしても軍隊の不規律なるは実に言語道断であった。範頼の如きも、前に述べた次第で、将卒の帰心矢の如く参謀長ともいうべき和田義盛その人でさえ、軍を見捨てて鎌倉に帰ろうとした位であるから他は推して知れよう。それで滞陣中も、士卒の狼藉を制する事ができず、朝廷ではこれがために、範頼召還の御沙汰があったほどである。ところが義経の軍にはその最後までかくの如き乱脈は一度も演じた事がない。かくて将軍としての彼は実は卓絶した手腕と威厳とを保っていたのである。

 

三 義経の失脚

かくまでに偉勲を奏した義経が頼朝のために重用せられぬばかりか、かえって極力排斥せられて、一命は申すに及ばず、妻子までも失うに至ったは、いかなる動機であったかというに、罪は無論世人のいうが如く頼朝にもあれば、また義経の方にもこの飛び外れて冷酷苛察な兄を控えたにしては不謹慎の振舞いもあって自ら招いた気味がないでもない。

頼朝は源氏の正統としての自信が強く、義仲でさえ自身の代官だと揚言していた位で、あくまでも一族の棟梁として天下平定の大任を背負って立った処から、その部下の何人に向かっても、絶対服従を要求し、自身と同列に立とうとか、また上位に出でようとする者は、兄弟であろうと一族であろうと、少しも仮借する処がなかった。彼の義仲の如きも、平氏追討の初めこそ仲善くしていたものの、間もなく範頼・義経に命じて殺しにかからしたのである。割合に従順な範頼でさえ、墨俣川の戦に味方と先陣を争うた廉で一時頼朝の勘気に触れた事があるが、それに懲りてか、爾来彼は小心翼々として何事にも頼朝の指揮を仰ぎ、義仲誅戮の後も一時鎌倉に帰って兄の機嫌を取り結んだが、義経はやはり京都に留まって警衛の任に当たり、法皇の御覚え殊にめでたかった。さなきだに頼朝の嫉視に触れがちの身であるのにややもすれば専恣の振舞いがあって、一再ならず頼朝の忌諱に触れたから、頼朝は敢えてその勲功に相当する恩賞を与えようとしなかったばかりか、かえってその腹心の武士に京都警固を命じ景時や土肥実平らを京都に派遣して、京都近国から西国までの実権を収めさせた。その中に一方の範頼は兄の推薦で参河守になりながら自分は全く恩賞に洩らされた。

これを見ては義経とて木石でないから、多少変な気にもなろうではないか。頼朝は部下の行賞は追って奏請すると申して直接にその任官叙位に預かる事を許さなかった。しかるに法皇は義経の抜群の軍功を賞せられて左衛門尉従五位以下に叙し給い、当時武士どもの名誉とした大夫尉になされたのを義経はそのまま御請かを致した。頼朝にとっては自分に対する彼の面当てとしか思われない。そこで義経の平氏追討使を罷めて範頼に命じた。義経は全くその立つ瀬を失った訳である。しかし兄思いの彼は忍んで頼朝に請うて四国の追討使として派遣せらるるの光栄を有した。当時の義経は、軍に出でねば無論その身が危うい、軍に勝てば迫害はますます加わるという、非常の窮境に陥っていたのを自覚していたろうが、それにもかかわらず、断乎として出征に決したのは非常の大決心を以てした事である。

法皇は義経の出征が京都を無警察の状態に陥らしむる恐れがあったので、高階泰常を御使として渡辺に遣わされて出陣を見合わせるようにとの御沙汰を伝えさせられたが、義経は御使に向かって、今度は殊に所在の仔細があって一陣に命を捨てる覚悟でござると申した事が『吾妻鏡』に見えている。彼の心事は実に憐むべきものであった。果たして義経はこの出征中一面大捷を博すると共に他面危害に近づきつつあったのである。

範頼・義経の部下といっても、多くは頼朝からつけられた直参の御家人たちであった。されば頼朝は範頼に向かって常にこれを労って粗末にすなと戒めて事もあった。範頼は部下とはいえ、その任免黜陟は悉く頼朝の指揮を仰ぎ、自分に対して礼を失した者までも頼朝の処分を請うて専決はしない。ところが義経にはそれができぬ。景時の義経の軍に加わったのは屋島の戦争後であるが、彼の有名な逆櫓の争いが実際の話かどうかは姑くおいて、義経の性格として彼との和衷はまず望みがない。殊に彼は自ら御所の近士と称して頼朝の寵を恃み、かつ侍所の役司として義経を牽制しようと試しみたらしいから、義経の癪に触って衝突したことも事実であったろう。またこれは景時ばかりでなく、頼朝のつけた他の御家人にも同様の態度に出でて少なからずその不平を買ったといわれているが、それもまんざら景時の讒言(ざんげん)ばかりとは思われぬ。彼らは頼朝に向かってその不平を漏したであろうし、頼朝の義経に対する悪感はますます火の手をあげる結果になったであろう。

 

四 義経の冤罪

義経が平氏を滅ぼして京都に凱旋してから後、頼朝の迫害は日一日と加わった。頼朝は義経が四国の軍事を取り扱う命を受けながら九州の事に干渉したり、頼朝からつけてあった御家人を任意に処分した事などを不埒と咎めた。義経は平宗盛以下の重なる捕虜を率いて鎌倉に赴いたが、引見どころか、鎌倉に入る事さえ許さず、そのまま宗盛らを京都に送還させて何らの賞をも行わなかった。
その後文治元(一一八五)年八月義経を伊予守に任ぜしめたのは、義経のために早く内奏を経たので今さら撤回せられぬ事情のあったためやむをえず勅定に任せたものと見える。さればその伊予国にすら国内には悉く部下の地頭を置いて義経に国務を執ることを不可能ならしめ、先に義経に与えた二十余カ所の荘園をも全部没収してその部下に給与した。加うるに梶原景季を京都に遣って義経の近状を探らせ、その頼朝に対する異心の報告に接して、暗殺のために土佐坊昌俊を遣わしたのである。

ところがこの義経の異心という事については何らの証跡があった訳ではない。その行為の中には多少不謹慎の譏を免れぬものもないではなかったが、全く世故に馴れぬ若気の落度で、別段に深い根柢はなく、それすら直接間接に頼朝の刺激に乗ったもので、むしろ稚気愛すべき所がある。もし果たして義経に自立の心があったとすれば、彼の如き迫害を忍んで自ら死地に赴く謂われもなければ凱旋の後さらに頼朝を鎌倉に訪うが如き挙にも出でなかったであろう。頼朝にしてもまた堂々とその罪を鳴らして討伐すべきであって、卑怯にも暗殺を企てるには及ぶまい。しかも本来ならば極めて秘密であるべき暗殺使の派遣がわざと敵に知れよがしに大袈裟な前触の下に派遣せられたらしいから、なおさら眉に唾ものである。現に義経は昌俊の夜襲を受けない前から、予めその上洛を知って決死の覚悟を法皇に奏聞している。これ全く頼朝が例の挑発手段で、義経・行家のかかる迫害に余儀なくせられて兵を挙げるのを望んだとしか思われぬ。両人の起ったのは実におめおめと死を待つに堪えなかったからである。

殊に注意すべきは義経が何ら政治的野心を包蔵していなかった一事である。彼の義仲は入道関白基房と結托して摂政の更迭・文武官の任免を行い、自身は院の御厩別当となり、ついには征夷大将軍ともなって、政治上の野心を行おうと試しみたものであるが、義経に至っては始終朝廷に対して恭順の態度を維持し、軍務に服して武人の本分を尽くすに止まっている。義仲は範頼・義経の率いた東軍が京都に迫るまでも院の御所に参って法皇の御遁出を防ぎ奉るのほか余念なく、六条河原の一戦に敗れてからもなお強いて法皇の御幸を奏請して既に御輿を寄せようとさえしたが東軍の殺到したため倉皇狼狽江州に逃れて間もなく粟津の露と消えたのである。義経も京都を出奔する頃は主上・法皇を擁し重なる朝臣をも具して西海に逃るるやに専ら風聞されたのであるが、その実毫もさる気色はなく、ただ頼朝追討の宣旨を奏請し、行家は四国の地頭、義経は九州の地頭に補せられたまでで、京都出立の間際にはわざわざ使者を院に進め、今度鎌倉の譴責を遁れんがため鎮西へ没落いたすについては最後の拝謁を遂ぐべきはずの処、行装異体のため御免を蒙りますと申し上げさせ、部下を戒めてかかる折りにありがちな掠奪をさせず、多少覚悟をしていた市民どもを手持不沙汰に終わらせた。されば朝野共に彼に向かって随喜せぬはなく、先には弟として兄に背くを逆罪とした藤原兼実さえこれを見て、「実に以て義士というべきか」と讃美している。
 

五 義経に対する同情

仮りに義経に自立の心があったとしても、当時の形勢は決してその成功を許さなかったのである。平氏や義仲の討伐に義経の率いた多数の部下の中で真に彼と死生を共にすべき家人は極めて少数であった。景時にいわせると、義経いかに神通力があっても、頼朝の代官でもなく、また頼朝の御家人らを差し添えられなかった日には一人の凶徒の退治も覚束(おぼつか)ないのに、彼は一身の大功と自讃しているように申している。口の悪い景時の讒口(ざんこう)といえ、一面の事実はある。義経が京都を没落するに当たって、一歩踏み出すや否や、直ちに敵襲を受けたが、その的は皆頼朝の節制の下にあるべき関東の御家人であった。そこで彼は極めて少数の郎党を伴うて江湖に落魄(らくはく)するのやみをえざるに至ったのである。

彼はその心事の如何にかかわらず弟として兄と楯ついたのであるから人倫の上かれいって余り褒めた事ではない、しかるに驚くべきは朝野の同情が頼朝に向かわずして。かえって義経に帰した事である。頼朝が彼の如き偉勲を奏した義経に向かって何らの行賞をも奏請しなかった事は、当時朝廷の少なからず驚かされた事である。頼朝贔屓の兼実ですらも、平氏の誅伐後たちまち大乱に及んだのは、全く頼朝の不徳に依るとして、「苛酷の法ほとんど秦の皇帝に過ぎたるか。よって親疎怨みを含むの致すところなり」といっている。

頼朝が全国到る処に部下の家人を配置してほとんど虫の這う余地もあるまじく思われた間を義経主従はいかにしてか切り抜けて遠く奥州までも落ち延び、前後五年の生命を保ち得たのは決して彼が身を隠すに妙を得ていた訳ではなくて、隠れたる同情者の、影になり日陽(ひなた)になって厚き庇護に依ったものである。この同情は独り当時ばかりではなく、後世に至るまでも、あるいは小説にあるいは謡曲にあるいはまた院本に彼の事蹟を伝えて、今なお児童の頼朝を知らぬまでも、義経は必ず知っているというのは、実に情理の推すところ争われぬものである。

義経が平泉の敵襲を脱して蝦夷に渡ったとか、蝦夷からさらに満州へ押し渡って、今の清朝の元祖になったとかいう義経再興記一流の附会はもとより取るに足らん説である。しかしながら従来割合に識者の間にも信じられて、既に「大日本史」の論賛などにまでこれをたすけた史論を載せてある。実は目下流行の雑誌の編纂法のように「義経がもしも生きていたならば」という問題に対する人々の感想位の程度のものである。とはいえこれまた後人の厚き同情の一端に相違ない。一度頼朝の恐い眼で睨まれたが最期、義経の運命は風前の灯火同様、既に定ってしまったので、しょせんは時期の問題に過ぎなかった。

当時源氏の一族で足利尊氏の先祖に義兼というものがあって、日頃頼朝の寵を受け、その間柄も極めて円滑であったが、それすら頼朝の毒手に触れまいものと苦心の果ては佯狂して一命を全うしたと伝えられている。義経の性格ではこの義兼の真似はちょっとできそうになく、よしできたとしても先方で許しはすまい。どうで生きて国内におれぬものなら、再興記の筋を行なって、満州征伐にその卓越した戦術を利用したならば、天寿を全うして、東洋の大英雄と謳われたかもしれぬ。彼が三十一年の生涯は、実に世界のあらゆる歴史人物中での最も不運な一人であった。(明治四十四年九月十三日)
 



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2000.9.1
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