義経公が首実検された日


本日6月13日は、今を去ること813年前、義経公の御首が、腰越の浦にて、首実検に供された日にあたる。

首実検をした者は、和田義盛と梶原景時である。吾妻鏡によれば、ふたりはそれぞれ甲に直垂を着けて、家臣の者20騎を従えて来たとある。御首は、美酒を浸した黒櫃に納められ、静に幕の張られた腰越の浜に到着した。義経公が非業の最期を遂げて四十三日。おそらくもう少し早く着いたはずの御首は、様々な鎌倉方の都合により、またしても腰越の辺りで足止めを喰わされる羽目となったのである。

この御首は、遥々と五百キロの彼方から運ばれてきた。担ってきたのは、奥州の武者高平(高衡?)。しかし実際に担いできたのは別の者である。吾妻鏡の記者は、このことにつき、中国の故事に例をとり、何故高平自らが、その御首を背負わないのか、と疑問を投げかけている。同感である。首実検に供される最後の時は、やはり義経公に対する敬意を払い自分が担ぐべきであった。

ところで、その後、御首の行方は、分からなくなった。故事に則り、尊顔を朱色に塗られて、浜に晒されたという伝承も地元にはあるようだ。それによればその首は、海に捨てられたが、黄金の亀の背に乗せられ、境川を上って藤沢の白旗の辺りまで来たというのである。里の者がそれを見つけてびっくりしていると、突如として、かたわらに居た少年に乗り移った義経公の御霊は、このように叫んだ。

「私は源義経である。讒言する者の毒舌にかかり、奥州高館の露と消える命であったが、それのみならず、今度は首を晒され捨てられることになった。怨念やるかたなし。どうかよく弔って貰いたい」

そこで藤沢の里の人々は、密かにこの朱色に泥の被った御首を丁寧に洗い清め、首塚を造って祀った。

以来、藤沢の人々は、義経公の慕い大切にしてきた。一方鎌倉では、御所の近辺で怨霊による祟りのような現象が様々にあり、ついには、この義経公を白旗大明神として、首塚の北の亀尾山に鎮め祀ることで、義経公の祟りから逃れることができたというのである。

本年も、義経公を白旗大明神としてお祀りする藤沢の白旗神社では、義経公鎮霊の儀が、近藤宮司と氏子の皆さまで無事執り行われた。白旗大明神となった義経公は、不思議な縁で結ばれた藤沢の人々により、未来永劫大切にされていくであろう。佐藤
 
 

 


2002.6.13
 

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