生と死の幻影
中尊寺蓮(泰衡が蓮)
−花は滅するからこそ美しい−

ここに一枚の写真がある。撮影は日時は、2003年8月24日昼頃。
中尊寺の金色堂の南側の池に咲いている中尊寺蓮を撮影したものだ。
一本の蓮が、今を盛りに、まさに開花しようとしている。
ところがその傍らでは、すでに枯れて黒くなった一本の枯れ花が、
泥の中から枝を伸ばしたまま、亡霊のようにすっと佇(た)っている。
またその周囲には、枯れつつある葉が黄ばんで決して美しいとは云えない。
もっとぼかしが利いて光線の具合なども美しい写真は他にいくらでもあった。
じっとこの写真を観ていると、時間といわれるものの本質を強く感じ切なくなる。
ともかく妙にこの写真が気になるのだ。
カメラのファインダーを覗いたには、まったく気付かなかったことだが、
いざフィルムを見てみると、そこには生と死が、同時にひとつの画面に納まっていた。
花に限らず、人に限らず、生きている者は、必ずその対極に死が待ちかまえている。
生きることは、すなわち死の世界への旅路である。
この枯れた蓮は、無惨に散った泰衡の過去か、それとも私の未来の姿か・・・。
美しく咲いた花もやがては、朽ち果ててしまうのだ。
この写真には、盛者必滅の理が垣間見える。
それにしても傍らの朽ちた花もまた美しい・・・。
枯れ果てて、花びらを失いつつも、萎(しな)びた花芯の奥には、
やがて花開くであろう蓮の種が秘められている。
きっと中尊寺蓮を見ながら、わが世の春を謳歌している人々は、
中尊寺蓮の圧倒的な、美しさに触れて、幾度となく、カメラのシャッターを切ったことだろう。
そしてこんな会話を交わしたかもしれない。
「中尊寺蓮って何て麗しい花なんだろう。」
「八百年の歳月を眠っていたものが、つい数年前に発芽したばかりだって…。」
「しかも泰衡の首桶に、首級に手向けられていた蓮らしいよ…」
「そいつは凄い。奇跡だ…」
その時、美しい蓮の前後左右には、朽ち果てて黒くなった朽ちた蓮もあったはずだ。
誰もそんな朽ちた花を意識しない。
ましてや、「もののあはれ」を感じる人は少ない。
それは今を盛りと咲く大輪の蓮が余りにも美しく輝いているせいだ。
しかし何をどのように言っても、このふたつの蓮は、同じ花であり、時間の経過の違いに過ぎない。
すなわち若々しく颯爽と咲く蓮が泰衡なら亡霊のように黒ずんで佇っている蓮も泰衡なのだ。
四次元(空間の中に時間を解放してしまえば)の感覚で云えば生者は、同時に死者である。
残酷な現実だが、人もまた花である。
いつまでも若く美しく咲き続ける花はない。
しかしだからこそ花は美しい。
精一杯生きる人はやはり花のごとく美しい。
泰衡の首桶から、五年前(平成十年七月)開花したという中尊寺蓮を観ながら、
その大輪の奥に秘められた盛者必衰の理を垣間見て怖くなった。
私は中尊寺蓮に生と死の幻影を覗(み)たのかもしれぬ。
美なるものの本質はむしろ滅するものの中にこそあるのだろうか・・・。
艶やかに咲きたる蓮の大輪の横なる朽ち花黒く萎みぬ
朽ちるという刹那の中で観ればこそ花は美し中尊寺蓮
生と死の幻影を覗(み)し奥州の古寺蘇る大輪の蓮に
2003/8/13 Hsato
思いつきエッセイ
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