孤独なテロリストの自己 

−ティモシー・マクベイの生涯−

 1 他人の詩に託した遺書
「稀代の殺人鬼」と形容されるその死刑囚は、死刑執行の時を迎え、最期の言葉は発しなかったが、代わりに次のように書かれた一枚の紙切れを、刑務所長に渡した。

「最期の書き置き Final Written Statement Of Timothy Mcvei」

私を覆う夜の闇を越えて Out of the night that covers me,
鉄格子の隙間から地獄牢に射す暗黒 Black as the Pit from pole to pole,
思うに神は私にとって征服不能の魂ではあるけれど I think whatever gods may be For my unconquecable soul.(中略)

たとえ一途に裁きの門に向かうにしても It mattars not how strait the gate,
どうして己の罪を絵巻をめくるように負うことなどできようか How charged with punishmennts the scroll,
(それでも)私は自らの運命の師であり I am the master of my fate
(それでも)私は自らの魂の指揮官なのだ I am the captain of my soul.


この言葉は、死刑囚ティモシー・マクベイのものではなく、19世紀のイギリスの詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリーの詩「Invictus」の一節だった。Invictusとは、「征服されない」という意味に当たる。何故この詩ような他人の詩を、己の最期の言葉として、書き写し手渡したのかは不明だ。まさにそれは、彼が死んでしまったのだから永遠の謎となってしまった。しかしただ言えることは、いかに非道極まりない犯罪を犯した人間でも、自分の魂については、いつでも自分のものであるという強烈な思い込みがあり、その思いがこれまでの死刑囚の孤独な心がそれでも狂気にまでいたらずに済んでいた唯一の理由であろう。

何故自分の言葉ではなく、他人の詩に、己の存在意義を見いだしたのか、そこにこの死刑囚の心の闇を説く鍵があるように思われる。すなわち彼は、最期の最期まで、自分のなしたことに罪の意識を感じながらも、実は別の所で、強烈なまでの神なるものに対する渇望があるような気がするのである。おそらくWHヘンリーの詩に接した時、死刑囚は神の啓示を受けたような感覚に襲われたに違いない。「自分と同じ感覚の人がいるのだ。この世の孤独者は俺だけではなかったのか」そう思って、ヘンリーの詩を貪るように読んだのであろう。

死刑囚テモシー・マクベイは、95年4月19日において、オクラホマシティー連邦ビル爆破事件を引き起こし、子ども19人を含む168人を殺害した極悪人である。この事件に対する死刑囚の一方的な主張には、どうしようもない憤りを覚えるが、この死刑囚が、最期まで連歩政府に対する国民の怒りの代弁者である、と自己を主張しながら亡くなったことは、ある意味では政治犯としての自負心のようなものを感じる部分もある。彼はある時、マスコミの記者にこのようなメールを出したことがある。「米国の外交政策を借りていうなら、連邦ビル爆破は、米政府によるセルビアやイラク空爆と、倫理的にも戦略的にも同じこと。その視点から見ると、連邦ビル爆破は容認できる行為だった」と。

そして、2001年6月11日午前7時(日本時間午後9時)僅か33歳の若さで、孤独な死刑囚は、足に注射を打たれて、数分後には目を開いたまま絶命した。この死刑については、本人も同意した上で、連邦爆破事件の遺族が見守るという異例な死刑執行となった。
 
 

 2 銃(ガン)社会アメリカの落とし子として
死刑囚ティモシー・マクベイは、1968年、自動車工場に勤める勤勉な労働者ビル・マクベイと旅行会社に勤めるミッキー・マクベイの長男として、ニューヨークの北部の小さな町に生まれた。その時マクベイ家には、二歳になる姉のパティがいたが、ティモシーの誕生は、マクベイ家にとって、間違いなく希望の星の誕生であった。

父のビルは自動車工場で、30年間も勤め上げるような勤勉実直な男だった。とりわけて才能豊かな人間ではなかったが、政治的には民主党を支持し、労働組合活動をし、恵まれない人々のための募金をするような人物だった。もちろん敬虔なプロテスタントで、日曜日礼拝を欠かさず、趣味と言えば、野球とゴルフで、リトルリーグのコーチを務めたこともあった。

しかしマクベイ家にも、不幸の影が忍び寄る。ティモシーが10歳(1978年)の時に、両親が性格の不一致を理由に離婚をしたのだ。その時の状況は、ティモシーにとって、精神的なショックだったことは想像に難くない。何しろ突然に母親が行方も告げず、荷物を纏めて出ていってしまった。平凡なビルの性格に愛想をつかしたのかもしれない。

それから、マクベイ家の様相は一変した。父親の仕事のことで、マクベイ家の子供たちは、家でほったらかしになることが多くなった。ティモシーの下には、妹のジェニファーが誕生していて、3人の子供たちは、母親のいない家で、肩を寄せ合うように暮らすようになった。ティモシーの孤独でシャイな性格はこの頃に培われた可能性が高い。

ティモシーは、それでも礼儀の正しい、少年だったようで、後にこのような大事件を起こす気配は微塵も見られなかった。アメリカの一般的な少年といった感じで、友達と一緒になってスケートボードや庭先でのバ スケットボールに興じるような極々一般的な少年時代を送っていた。それにティモシーは、父のビルを尊敬していて、父親との良好な関係を保っていたようだ。

ティモシーはやがて中学に進級した。徐々に彼の性格が変貌してくるのはこの頃からだ。まず銃やサバイバル訓練に異常なほどの興味を持つようになった。しかしかといって、何か学校で問題を起こしたことはない。成績は特に優秀ではなかったが、それは単に勉強に興味がなかったからのようだ。現に彼は、少しあとになって、奨学金を優秀な成績で貰うほどであった。

高校卒業後、大学には進級せず日本で言えば専門学校にあたる2年制のコミュニティーカレッジに入学した。コンピュータを学ぶためだったが、彼はここを中途で退学した。その後、現金輸送車の運転の仕事に就く。この頃のマクベイを知る同僚の話によれば、暴力的な性格が現れ、銃への執着も一倍で、前方をノロノロと走る車に、ショットガンを持って怒鳴り散らすような粗暴な面を見せたとの証言もある。やはり職は長続きしなかった。転職した彼は、ついに大好きな銃のセールスマンとなった。この当時(1988年)彼は、高校時代の友人と共同で10エーカーほどの土地を購入し、「サバイバルするの者の隠れ家」(survivalist bunker)と呼んでいた。 

ティモシーは、次に陸軍に入隊した。入隊時の成績は優秀なもので、特に数学や電子工学などは高得点を得た。爆発物を作る訓練の時には、製造法をすでに知っていることを自慢していたとの証言もある。射撃訓練ではほぼパーフェクトの点数を出し表彰受けたりもした。非常にストイックで孤独な性格が目立ち、酒や女性には興味を示さなかった。一方では軍の同僚たちに金を貸し付け、車で送ったりして小銭を稼いでいたようだ。また黒人に対する侮辱的発言が目立つようになった。依然として彼の興味の中心は、サバイバルや戦争であり、それらの関係の雑誌や映画を貪るように漁っていた。

やがて86年ソ連でペレストロイカを唱えるゴルバチョフが登場すると米ソの冷戦構造は、急速に崩壊していった。しかしティモシーの頭の中に変化はなかった。かれは陸軍が人員削減を始める最中にも、グリーンベレーの隊員になるべく激しい訓練を自分に科した。おそらく彼の中では、自分がヒーローになるという夢と現実が頭の中で激しく交錯していたに違いない。そして1991年1月、突然のごとく湾岸戦争が勃発する。中東の戦場に赴いたティモシーは、水を得た魚の如く奮戦し、数個の勲章を受けることとなった。ところがその後、エリートであるグリーンベレーの試験を突破することはできず、ひどく落胆した彼は、同年の91年に秋には陸軍を自らの意志で除隊してしまう。
 

 3 犯罪への軌跡
ティモシー・マクベイは、やがて警備会社に職を得た。軍に関係する企業を巡回するだけの単調な生活がはじまった。それでも彼は父ビルと同居をし、以前に購入した土地を新しい人生のために売却した。仕事振りはいたって真面目だったようで、直に責任者の地位を任されるようになる。しかしこの頃、彼は武装右翼思想に急接近をし、ミシガン州の白人右翼武装組織「ミシガン・ミリシャ」と呼ばれる民兵組織に席を置くようになり、急速に連邦政府に対する不信感を募らせて行った。

92年には地元の新聞社に「アメリカンドリームは消えた。政治家も国民もみんな私利私欲に走って自分のことしか考えない。アメリカは衰退している」という趣旨の投稿をしたこともある。一方銃に対する興味は、ますます募り、93年には銃器展示会で武器を売りさばいたり、右翼系の新聞に対戦者ミサイルの広告を出したりもするようにまでエスカレートした。

そして93年4月19日。彼が大量殺戮という大犯罪の銃(ガン)の引いてしまうきっかけともなる大事件が起きた。それはテキサス州ウェイコで発生した武装したカルト集団「ブランチ・ダビディアン」の立てこもった後、女性信者や子供を含む約80名の人間が、集団自殺するという悲惨な事件であった。この事件を見ていたティモシー・マクベイは、踏みこんだ米連邦捜査局(FBI)こそが火を放って虐殺したのだと、思いこんだ。

そしてこの「ブランチ・ダビディアン」事件から二年後の同日同時刻、ティモシー・マクベイは、あの忌まわしいオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件大事件を緻密な計算と計画のもとに引き起こしたのである。300にも及ぶダイナマイトにより、巨大なビルは、粉々に砕け散った。犠牲者168人、負傷者500人以上にも及ぶ、アメリカ犯罪史上にも類例を見ないような犯罪だった。マクベイにとってそれは民衆の復讐劇そのものであった。あるいは自分がそれによって、新しいアメリカの歴史のヒーローなるという強烈な思い込みもあった可能性もある。この4月19日という日付は、奇しくも1775年アメリカの独立戦争が開始された日にあたる。

彼は自分の近しいマスコミ記者に向た最後の手紙においても、このことを強調して言った。
「自分は何が正しいかについて議論をするつもりはないが、自分の考えや爆破動機などをきちんとした記録として残しておきたい。爆破は、93年にテキサス州で起きたブランチ・ダビディアン事件をはじめとする、数年にわたり続いている連邦政府の市民に対する横暴な国家権力の行使への報復攻撃だった」

こうして最後の最後まで、あくまでも自分の正当性を主張する死刑囚ティモシー・マクベイは、事件から二年後の97年に、類例のない大事件としては異例のスピードで死刑判決を受けた。自分の行為について、ティモシー・マクベイは、犠牲者とその遺族に対して公式には一切の謝罪をしてはいない。ただ「巻き添いとなって死んだ人々には済まなかった」というような発言を近しい記者に洩らしたとも聞く。ともかく死刑囚ティモシー・マクベイは、狂気ではなく、正気の中で、このような非人間的行為を犯し、そして最期の時まで、自らの運命の支配者として正気の自己を保ちながら、ひとりの孤独なテロリストとして死んだ。

おそらく彼の内面では、相当な混乱と葛藤があったに違いない。しかしもしも己の罪を認めていたならば、彼の自己はおそらく正気と自己同一性(アイデンティティ)を保つことは不可能だったろう。自分が考える正義とアメリカという国家が考え主張する正義との乖離に悩みながらも、ともかく彼は、自らの魂の指揮官でいるために、謝罪の言葉を被害者に向けて発することはなかったのだ。奇しくもこの死刑囚が、連邦政府の法律に照らして38年振りに死刑執行された6月11日、ブッシュ大統領は、「これは復讐のための刑ではなくアメリカの正義が守るための刑だった」と語った。確かに彼に死をもたらした死刑という極刑は、結審までのスピードや犠牲者の家族や被害者を前にした公開処刑など、異例ずくめではあったが、彼の犯した罪の深さから言えば、これを間違いだったとと一概に否定できるものではない。いやむしろ当然の報いだ。
 

 まとめ 
それにしても、いったいティモシー・マクベイは、何のために生まれ、そして死んでいったのか。人は誰も殺人鬼になるために生まれて来るのではない。もしも彼がこの世に生を得て、何かをなし得たことがあるとしたならば、己の罪を狂気の性などにせず、信仰の性にもせず、ただ自分が正しいと、たとえそれが思い込みや幻想であるにせよ、それを最後の最後まで、主張し、自らの個人としての存在を強烈に主張し続けて、孤独のうちに死んでみせたことだろう。

考えてみれば、果たして、いったい何パーセントの人間が、間違いなく自分は生涯において常に自分の魂の指揮官(キャプテン)だったと胸を張って言える人間がこの世に存在するだろう。私が見る限り、ほとんどの人間は、自己の指揮官などでは居られず、「仕方がない」と言っては、つまらない私利私欲や長い物に巻かれ、やがて妥協に妥協を重ねては、寂しく死んでいっているではないか・・・。

彼が、遺書の代わりとした詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリーの詩の中に「見ろ 見るべきだ私を怖れずに Finds, and shall find, me unafraid」 という下りがある。私はしばし彼の生涯をたどりながら、ともすれば目を背けたくなるようなティモシー・マクベイの生涯から、誰の中にもある心の闇としての「自己」というものの在りようを学ぶことができるかもしれない、とふと思うようになった。つまり殺人鬼のマクベイの生涯にも我々が見るべきもの、学ぶべきものがあるということだ。そのお礼という訳ではないが、いまこそ死刑囚ティモシー・マクベイの御霊に、一輪の花を手向けようではないか。

 紫陽花の色鮮やかに咲き初むる葉に零れくる雨の優しさ

余りにもシャイで孤独な心を持ったテロリスト、ティモシー・マクベイの御霊よ、鎮まれ、そして安らかに眠れ。佐藤
 

*参考HP
Oklahoma City Bombing Traials (CNN)
 http://www.cnn.com/US/9703/okc.trial/

 


2001.6.14

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