東北人は何故源義経をこよなく愛するのか?!
【異人殺しとしての義経自害】

何故、東北の人間が源義経という人物をこよなく愛して止まないのか、ということを少しばかり考えてみたい。

本論も、折口信夫を手がかりとして論を進めてゆくことにしよう。折口の語彙に「客人」という言葉がある。これは、「まろうど」あるいは「ま れびと」と読む。語源は、「稀(ま)に来る人」の意味で、神聖な旅人あるいはシンプルに言えば神そのものを指す。折口説によれば、始め珍客(賓客)を称し て「まれびと」と呼んでいたものが、が音韻変化によって、「まらひと」そして「まらうど」となり、現代語表記で「まろうど」となったものと推測されてい る。

古代信仰の中では、先に「ヒルコ」として説明した「蝦夷(えびす)」や正月に訪れるという「歳神(としがみ)」、「寄神(よりがみ)」な どがこの「まろうど」に該当する。さらに朝廷の天皇や王子たちが、遠征してきたり、逆に勢力争いに敗れて落ちてくる場合もある。また弘法大師や慈覚大師の ように布教のために訪れてくるのも、「まろうど」ということになる。

この「客人」という概念で言えば、奥州平泉における義経は、まさに「まろうど」であった。つまり義経という貴種の奥州入りは、珍客の来訪 であり、神の到来に等しいものであったと考えられる。初代清衡は、義経の血脈を四代辿る源氏の棟梁源義家の加勢があって始めて、奥州の覇者の座に上り詰め ることができた。恩義に熱い奥州藤原氏三代秀衡にとって義経の奥州入りは、まさに「まろうど」の到来に等しかったと思われる。大変な歓待ぶりで、義経記に よれば、直ちに義経には、所領が与えられ、秀衡配下の豪族たちは、義経に次々と貢ぎ物を進呈したとあるが、ここまでのことはないかも知れないが、あながち 虚構であったとは言えないのである。

そうすると、苦労辛酸を舐めてきた義経にとって、一夜明けたらシンデレラボーイになっていたということになる。もちろん、奥州での義経の 行動については、謎な部分が多い。義経記でも、平泉から京都の鬼一法眼の許へ下って、兵法書「六韜三略」を読みあさって、これを全巻書写して内容を把握し てしまったとの伝説が紹介されている。これはおそらく、当時から奥州時代の義経が諸国を遊学しながら、様々な足跡を付けていった徴(しるし)であろうと思 われる。平泉周辺で、多くの義経にまつわる地名や史跡が点在するのも、おそらくは、後世の義経伝説の伝播による作り事ばかりではなく、実際の義経にまつわ る本物の伝承が地名となった場所もあったと思われる。

さて、「まろうど」が義経であったとなると、義経は貴種でありながら、何かしらの罪を負って流浪の旅の果てに、奥州に辿り着いたというこ とになる。日本の神話では、このような人物の露払いと道案内をして、導く者が現れるというパターンがある。その典型は巨体で鼻が長く、眼(まなこ)が輝き 口尻が赤いという「サルタヒコ」というどこか西洋人を思わせる国津神(現地人ほどの意味か)である。周知のように、このサルタヒコは、ニニギノミコトの天 孫降臨に際して、この「まろうど」の神(天津神)を、道案内したとされる人物で、今日では道祖神として祀られている。各地の神社の祭礼でも、その先頭に高 下駄に赤い面を着けて天狗のような神がいることが多いが、これが「サルタヒコ」である。

さて、このサルタヒコという神のイメージが、私は「武蔵坊弁慶」のイメージには投影されていると感じる。つまり日本人は知らず知らずのう ちに、サルタヒコのイメージを「武蔵坊弁慶」としてリアリティを持たせたということになる。その証拠として、義経が兄頼朝の勘気を被り、第二の奥州入りを せざるを得なくなった時、弁慶は、突如として、サルタヒコの役割を担って、奥州までの道案内を務めるということになったのである。最近では、吾妻鏡の下り から、弁慶という人物は、実は延暦寺の俊章という僧侶ではなかったかと言われるようになった。そう言えば、弁慶も義経記の記するところでは、延暦寺の西塔 に住んでいたということになっているが、その辺り俊章という人物の足跡が弁慶の記憶と入り交じって、弁慶というイメージが出来上がっていったのではないだ ろうか。

「まろうど」というものは、歓待されるだけの存在ではない。時には、ひどい仕打ちに遭うこともある。このことを小松和彦氏(1947?) は、「異人論」や「悪霊論」のなかで詳しく書いている。それによれば、各地に「まろうど」というものを殺す伝承が数多く残っているというのである。この典 型が福島安達ケ原の鬼婆の伝説である。この話は、一夜の宿を借りに来た旅人を殺して、持っていた路銀のみならず肉まで喰ってしまうという鬼婆の話である。 これは能の「黒塚」として脚色されているが、異人としての「まろうど」殺しの極地とも言うべき話である。

さて、私は義経の第二の奥州入り後の義経記における義経の殺害譚に関しては、この異人殺害の話であると思うのである。つまり秀衡の不意の 死後、どうしても義経を護りきれなくなった事情があるにせよ、秀衡の嫡男である泰衡は、義経の首を頼朝に差し出すことによって、奥州の平穏を保とうとし た。愚かなことではあるが、泰衡は結果として「異人殺しの罪」を犯すことになったのである。もっと言えば泰衡は、「異人」あるいは「まろうど」としての義 経を人身御供(ひとみごくう)とすることで、奥州という共同体の利益を守ろうとしたのである。

私は共同体の利益を守ろうとした泰衡が、どんなに浅はかな行為だったとしても、そこには過去に前九年後三年の役と呼ばれる大変悲惨な大戦 争の影が、奥州人の中に拡がっていたのではないかと推測する。中尊寺を中心にした平泉という中世都市は、聖なる宗教都市であり、血生臭い抗争などあっては ならない神聖な場所であった。

それは初代清衡が起草させたと伝えられる「中尊寺落慶供養願文」の中に整然と盛られている中心概念である。それを現代的に表するならば、「奥州 平泉・非戦の誓い」とでも言うような思想であった。

秀衡は、ある意味で、その遺言を見る限り、鎌倉方が攻めて来るならば、初代清衡の「非戦の誓い」を敢えて破ってでも、対抗すべきだと考えて いたと思われる。秀衡は、政治家として、「非戦の誓い」を熟知しながらも、ここは義経の才能を借りて、戦によってでも、奥州を守るべきことを望んだ。秀衡 は抗戦論者だったのである。その秀衡が亡くなって、彼の重しが取れた時、百年の間に平和に慣れ親しんできた奥州の人々の中で、俄に不戦論が力を得たと思わ れる。その中心にいたのは、外戚としての藤原基成であったと推測される。彼は京都における摂関家の人脈をフルに活用すれば、奥州の平和は保てると主張し た。それを孫である泰衡に言わせたのである。こうなると泰衡政権というものは、基成の傀儡そのものであったということにある。吾妻鏡では、奥州が陥落し、 基成らの親子数名が「衣川館」にいたところを抵抗もせずに捕縛され、鎌倉に連行されたということである。

こうして、義経を中心とした鎌倉との戦争も侍さないとする抗戦派は、秀衡の死後急速に力を失って、義経も戦う意思を失っていたということ かもしれない。それでも奥州の中には、泰衡の弟忠衡のように、義経という人物を深く敬愛し、泰衡の不戦論に異を唱えた人物もいたと思われる。

現在でも奥州人がこの忠衡という人物を義経の忠臣同様に讃えるのは、義経という稀代の英雄を殺害し、ついには歓待すべき「稀なる客人」を殺害し てしまったという原罪意識が働いているのではないかと思うのである。



2005.6.15 Hsato

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