完璧な人物?!空海

 

本物か、はたまた贋物(にせもの)か、の論争のことを真贋(しんがん)論争という。贋物が本物に成りすましたまま、何十年、何百年も、その地位に収まっていることがある。人は評価が定まってしまうと、むやみに信用しすぎる傾向がある。ましてや権威のありそうな人間が、「アイツはホンモノだ」などと
いうと、それまで疑っていた人間までが、「そうだ。そうだ」の連呼となる。

人間の感覚というものは、割かしいい加減なもので、世間や、権威ある人間の発言に、ころりと騙されてしまう。また騙されるまでは行かなくても、決定的な影響を受けてしまって、本来の自分の発想や考えと言うものが歪められてしまう傾向がある。

例えば、弘法大師(空海774〜835年63歳で没)という人物がいる。彼は、都が奈良から京都に遷都される奈良時代末期から平安時代初期に活躍した僧侶である。日本人は、弘法大師(空海)というと、仏そのもののように思っているところがある。しかし私は彼の生き様に、多くの疑いを持っている。そもそも密教とは、口伝(教義を口で、弟子から弟子へ伝える)をもって伝えられる閉鎖的な宗教であり、「私の教えに、秘密などはない」としたブッダの開放的な考えとは、少しばかり毛色が違う。

私が見る限り、空海は、出世欲権力欲が強く、思いこみの激しい大秀才であった。19歳の時に彼は、ある僧侶から、密教の短い真言(虚空蔵菩薩求問持法=こくうぞうぼさつぐもんじほう)を百日間で100万回唱えると、読んだ本は、忘れることなく、すべて暗誦し、理解できると、教わって、見事成就させ
たほどの意志の強い青年だった。

31歳で、中国(唐)に渡った時、青年僧空海は、中国密教界の中心人物(恵果)にターゲットを絞り込んで、弟子になり、密教の最高の教義を我がものとした。日本に帰ってからは、ライバルの最澄(比叡山延暦寺開祖)としのぎを削りながら、時の権力、桓武天皇に、きっちりとすり寄っていく。空海の密教
の目指したものは、はっきりいって個人の魂の救済などではなく、国家安泰という大原則である。その為に、空海も最澄も、国家によって領地を与えられ、それぞれ、高野山や比叡山に巨大な仏教寺院を構えることに成功したのである。

しかし私は、空海の伝説そのものに強い疑いを持っている。空海の生涯は整いすぎていて、はっきり言ってうそ臭い。伝説によれば、空海は、密教の力を借りて、雨乞いをし、金の鉱脈や温泉を探り当て、疫病を退散させたりした、と伝えられる。しかし真実はどうだったのだろう。確かに空海が持ち帰った書物の中には、土木や建築や鉱脈技術に関する最新の情報があったようだ。そのような技術を一般大衆が、魔法や法力のように錯覚したことは十分に想像できる。

空海の生涯を、伝説化し、彼を神仏の化身のように扱うことは、その裏に何らかの意図があるはずだ。私は、その意図を、空海という偉大な宗教家の秘密の力によって、国家鎮護するという幻想を国中に広めることにあったと考えている。つまり「国民よ、想像もつかないような力がこの日本という国家には働いている。だから誰も逆らうなよ」という思想が、空海伝説の裏には流れているのである。

元々、空海にそんな力はない。ないものをあるように見せるためには、トリックがいる。そのトリックに時の権力である海千山千の桓武天皇がひっかかるわけはない。そのトリックを大いに利用したのである。

例えば、京都の風物詩に、大文字焼きという祭りがある。送り盆で行われる火祭りだが、あの祭りは、京都の疫病を封印するために空海が行った密教的な儀式から由来していると言われている。しかし宗教に、そうした力はない。ないものをあるように見せるためのトリックが、大文字焼きの幻想的な火のイメージなのである。宗教に政治がすり寄り、政治に宗教がすり寄る。この光景は、人類の歴史に、いつも見られるくだらないもたれ会いの構図である。

元々仏教とは、国家救済を目的とした教えではなく、個人の魂の救済や自覚をうながす教えなのである。その証拠に、ブッダ自身、自らの一族である釈迦族の滅亡を救えなかったし、救う力となりえない自らの教えの現実と限界を知っていた。ブッダは、一族の滅亡を、ただこの世に常なるはなし(無常)と看過して、じっと祈ることしかできなかった。だからと言って、私はブッダには力がない、偽物だ、というつもりは毛頭ない。むしろこの態度を見せられてこそ、本物の教えの凄みを感じ、ますます崇敬の念が強くなるというものだ。いかにも民衆が好みそうな超自然的な力を発揮したり、様々な伝説によって飾られている歴史的ヒーローを見る時、私は、少々首を横にして疑うことにしている。本物は、そんなに、かっこよく、きれいに整っているものではない。

確かに空海は、日本の歴史上屈指の大宗教家である。何もその大天才を、贋物というつもりもない。ただたとえ空海であっても、絶対的で不可侵な人物として、ただちにその教えのすべてを信用することはない、というのが私の立場である。(個人的に言えば、空海という人物は、いささか権力にすり寄り過ぎで、鼻につく。)

大体この世に完璧な人間などいない。いるとすれば、それは無理をして完璧を演じているか、後々に完璧な伝説を作られたかのどちらかである。最後にあえて妙な言い回しを許して貰おう。空海は、その教義も人物も、余りに完璧という観念に取り憑かれた人物であったように思う。その為に、彼の死後、弟子や宗徒たちも、師空海を「完璧な伝説伝承」で美化し始めた。そもそも人間という生き物は、多くの非完璧な部分(欠点や過ち)があって、初めて人間らしい魅力と美しい陰影を放つものである。

どうやら我々日本人は、1200年もの間、空海という人物を、神聖かつ侵すべからざる完璧な人物として、無条件にあがめ、奉り過ぎてきたようだ。時代は変わった。空海を鎮護国家の宗教家として擁護した桓武天皇の末裔の昭和天皇だって半世紀以上も前に、「人間宣言」をしている。どんな人物でも、その真実の姿を、涼しく眺め、そして再評価すべき時代と思うが、どうだろう・・・。佐藤
 


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1997.9.29