クルスク浮上せず

原潜事故から見る国家としてのロシア


ノルウェーの潜水救助チームの活躍で、原潜「クルスク」全員の生存の可能性が否定され、救助作業は打ち切りとなった。遂に若き水兵118人は、戻らなかった。ロシア海軍史上最大の事故であるという。心から百十八柱の冥福を祈りたい。

この事故でロシアについて多くのことが分かった気がする。

まず第一に、就任以来一貫して強いロシアを標榜していたプーチン大統領の指導力が、それほどでもないことである。プーチン氏は、避暑地にいたらしいが、出てくるなり「専門家ではないので、行く必要はないと思った」と語り、多くの乗組員の家族をはじめ、世論の批判を浴びる結果となった。

確か1986年のチェルノブイリ事故の時、ロシアはまだソ連邦だったが、時の最高権力者のゴルバチョフ書記長は、すぐに現場に駆けつけて、陣頭指揮をとり、住民の手を取った。これは大きな違いだ。リーダーたる者、非常の時こそ、その真価が問われるのである。今回プーチン氏は、ただの一度も、現場に現れることはなく、しかも問題発言によって、完全に男を下げた。

第二には、ロシア海軍の救難レベルが、他の先進諸国と比べた場合、以外に低いものであることである。おそらく原潜の技術としては、世界最高水準かも知れないが、乗組員の安全確保という大事な点を見落としている点で、私は日本の零戦のことを想起してしまった。つまり、零戦が登場した当時、その小回り性能を脅威に感じたアメリカ空軍が、ある時不時着した零戦を手に入れて、徹底的に性能調査をした時、ただ薄い鉄板に覆われた零戦を見て、「搭乗員の安全をまるっきり考えていない」と唸ってしまったというのだ。つまり零戦は、空中での戦闘を有利にするために、安全性能は無視され、空中での運動性能ばかりが、追求された結果の戦闘機だったのだ。同じ事が、もしかしてロシアの原潜の設計思想にありはしないか。そんな疑問を持ってしまった。乗組員の安全思想のない乗り物を設計するような国家は、いわば国民を盾(たて)にするような国家であり、国民を徹底的に守り抜くぞ、という思想の国家の前には、必ず敗北するということは、人間の歴史がそれを証明している。

それと付随して、第三にはロシア軍内部の報道の仕方が、身内の失敗をかばう傾向にあることだ。様々な事故についての発表を聞く限り、すべて発表する度に変わってしまい、何やら日本の「大本営発表」とまでは行かないにしても、メンツを重んじているのか、それとも身内をかばっているのか、すっきりしないものを感じてしまった。まずロシア軍は「何か大きい物体との衝突」という外部原因説をとっていたが、アメリカの発表ではで、「爆発音を聞いた」と、内部爆発説をとっていたことだ。これもいずれ分かるであろうが、どうにもすっきりしない。また乗組員の安否についても、その発表は二転三転した。

第三にロシアのメディアの報道の自由が以外に進んでいることである。ロシアのメディアは、乗組員の家族にインタビューをし、プーチンの無能振りを辛辣(しんらつ)にこき下ろし、自国の軍部の発表内容に対しても疑問を投げかけるなど、きちんとした報道振りには驚いた。報道の自由は、民主主義の根幹であり、その意味でロシアという国家の民主化に加速度がついていることは間違いないと思う。

ロシアは、確かに大国であり、軍需技術的にも世界最高水準のものを保持していることを否定することはできない。しかしやはり民主国家としての形はまだ出来ていない。それがこの原潜事故からみたロシアという国の偽らざる姿だ。改めて今回の事故の118人の犠牲者の冥福を祈りたい。佐藤
 


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2000.8.22