黒澤明「まあだだよ」の教育論


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内田百閧フ人間力と教育のあり方について-

 
イジメが日本中の教育現場に蔓延し、子供たちの自殺が深刻な問題となっている。何故、 こんなことになってしまったのか、考えていると、ふと黒澤明の映画「まあだだよ」(1993年)の一場面が浮かんできた。

ある日、年老いた先生が学校を退任すると、子供たちの前で宣言をする。するとひとりの教え子が先生に向かって、このように言う。
学校の先生をやめても、先生は先生です。僕のオヤジも、この学校の同窓生だったオ ヤジの友達も、今もって先生のことを先生先生と言っています。そして先生は金無垢(きんむく)だって・・・」(全集黒澤明 最終巻 「まあ だだよ」より 岩波書店 2002年5月刊)

この映画は、教育者から後に小説家になった内田百閨i1889−1971)の自伝的短編が原作となっている。百閧ヘ夏目漱石(1867−1916)に師事 した人物であるが、やはり師である漱石の影響もあってか、長く教育の現場にいた人物だった。生徒が言う「金無垢」と言うセリフがあるが、これは内田百閧ニ いう人物について、紛れもない「本物の教育者」であるという意味で使用しているようである。

ところが、映画を観ていると、この内田百閧ェ、完璧な教師であったかというとそんなことはない。飼い猫ノラが居なくなれば、オロオロと探し回り、東京が空 襲に遭い、自分の家が燃えて焼け出されては、為す術もなく、あばら屋で暮らすことになる。むしろ内田百關謳カは、世渡りが下手で少しも格好良くない。

しかし教え子たちは、そんな人間味のある先生が大好きで、ネコが居ないといっては一緒に探し回り、家が空襲で焼け出された時には先生のために家を確保しよ うと奔走する。そこには師弟愛から始まった人間同士の温かい交流がある。いつしか先生を中心にした輪のような関係が自然に出来上がっている。大戦という暗 い世相のなかでも、必死で生き抜く当時の日本人の逞しさが満ちあふれた温かい人間ドラマだ。

この映画について、黒澤は、撮影後のインタビューでこのように述べている。
今度つくった『まあだだよ』は、教育のあり方を描いたんです。教育というのは、教 室で先生から教わることももちろんあるんだけれども、それだけじゃなくて、先生の人間性そのものから教わることが多いんだよね。それがいまの教育には欠け ている。先生と生徒の間柄が、いまは何か水くさくて、先生はサラリーマンみたいだし。・・・昔は、僕らもずいぶん先生のところへ遊びにいったものですよ。 入りびたりになっていたくらいでね。」(黒澤明「夢は天才である」文芸春秋社 1999年8月刊)

確かに黒澤の言う通りだ。昔は、先生の家に行き、様々な話をしたものだ。私は高校時代寮生活だったこともあり、先生の蔵書を前に、目の眩むような思いを抱 いたこともある。内緒でといって、ウイスキーを戴いたこともある。すべては新鮮だった。

敢えて分かり切ったことを言うならば、偏差値の高い学校に入ることが、教育の目的となってしまった昨今の教育は、一種のサービス産業に成り下がってしまっ たのである。教育は、サービス産業とは明らかに違うはずだ。教育本来の目的は、見識ある人間がこれから社会を支えようとする人間に対し以心伝心(いしんで んしん)で伝えられる何かである。以心伝心とは、心をもって相手の心に直接伝えるもの。それが教育の原点である。

ところが昨今では、偏差値の高い学校に入れることが、教育の本分となってしまった感がある。その結果、必要のない学科は当然のようにしてどんどんと省かれ てしまう。最初に省かれたのは「道徳」だった。最近では「世界史」の未履修問題が世間を賑わしたが、受験テクニックを中心とせざるを得ない詰め込み教育と いうものは、親のエゴと文科省のリーダーシップの欠如の結果とはいえ、実に情けない話である。

現在のように、現場の先生方が、受験やら何やらで、そんな時間が取れないと、本気で思っているならば、変えるしかない。そのような余裕のない教育の現場で 育った子供たちの将来の人間としての伸びしろ(成長力)も、たかが知れているというものだ。独創性のある子供たちは、そんなところからは決して出ては来な いであろう。

私たちは、黒澤がシンプルに指摘したように、子供達が、先生の人間性や人柄から自然な形で教わる以心伝心の機会をつくってあげるべきではないだろうか。そ のためには、先生の方でも、子供たちに人間味で教えられるような「金無垢の先生」になってもらうような努力が必要となる。


2006.11.20  佐藤弘弥

義経 伝説

思いつきエッセイ