栗林忠道 硫黄島からの手紙 を読む
−栗林忠道の感性に宿る真田幸村−
「栗林忠道 硫黄島からの手紙」という本を読
み終えた。これは昨日、「父親たちの星条旗」という映画を鑑賞した後、もっと硫黄島の戦というものを知らなければ、という思いに駆られて選んだ本の一冊で
ある。
まず率直に、栗林忠道という人物の家族への愛情がほとばしり出るような内容で強い感動を覚えた。以前に読んだ革命
家エルネスト・チェ・ゲバラの別れの手紙とのふしぎなほど似ているなと思い、人は愛する者と別れ行く時、このような感慨に浸るものだと思った。
硫黄島の悲劇をまずイメージする時、もしもアメリカ人から見れば、敵の総大将である栗林中将は、間違いなく鬼のよ
うな形相をした怪物そのものだったに違いない。しかし彼はアメリカの国力を熟知し、アメリカ人のスピリットも知り尽くした知的な人物だった。もちろん英語
もしゃべれ、アメリカ人の友人もいたはずだ。
ところが一旦、彼が軍人として、個々人の意識を離れ、アメリカを敵国として戦うことになった時、彼は毅然として一
匹の鬼に変身し、硫黄島の攻防における綿密な対アメリカ軍戦術を練り上げ、冷静沈着にその戦術を実行した。その結果、硫黄島の攻防は、戦史に遺る激戦と
なった。
アメリカ軍幹部が五日で攻め落とせるとした試算はあっさりと外れ、一月以上に渡る激しい攻防戦が繰り広げられた。
戦闘前のアメリカ軍の攻撃で擂鉢山の木々草木は悉くはぎ取られ、その後には禿げ山となったその地下には、脳のシナプスのネットワークを思わせる地座塹壕
が、激しい空爆にもビクともせず、存在していた。
栗林中将は、戦の常道を意図的に外し、米兵の上陸間際で攻撃することをせず、空爆の結果日本軍のほとんどの塹壕は
壊滅したと思わせ、近くまで引き寄せたところで、いっせい機銃掃射によって戦闘の火ぶたを切ったのであった。
昭和二十年二月十九日、戦闘初日、アメリカ軍海兵隊の戦死者は五百名を越え、夥しい戦傷者が島のそこかしこで苦痛
に顔を歪めた。二日目にはさらに戦死者の数は増え、アメリカ大統領ルーズベルトは、驚きマスコミへの発表をためらったと伝えられる。
いったいこの本の中にいる物静かで家族思いの栗林忠道の中に、どんな武人の才能ともいうべき野生の感性が眠ってい
るのか・・・。私はその時、一瞬で閃いた。彼の中に、真田幸村の感性が宿っているのではないか。言うまでもなく、真田幸村は、彼の生まれ故郷である長野県
松代の英雄である。おそらく栗林忠道は、子供の頃から、戦国武将真田幸村の鬼神のごとき活躍や真田家がいかなる困難を乗り切って、お家を存続させてきたか
を、父や祖父から聞いて育ったはずだ。
真田家の家臣であった栗林家が真田藩の中でどのような役職にあったかは分からない。しかし真田家存亡の苦難の歴史
については、栗林家にあっても、これを自らの人生観とするような話を連綿として父から子へと語り継がれて来たことであろう。
戦国時代の末期、真田家は、天下統一目前の徳川の大軍と対峙し、城周辺に掘りや落とし穴などの様々な仕掛けを造
り、圧倒的な兵力を誇る徳川秀忠率いる徳川軍を上田に足止めをした。関ヶ原に遅れて到着することになった徳川主力軍のリーダー嫡男秀忠に対し、父家康は大
激怒したと伝えられる。
ここからが真田家の本領を見せる場面だった。真田家は、恩義ある豊臣に忠義を尽くす形で父昌幸と次男幸村が西軍に
付き、嫡男信之は力のある東軍に付く。家をふたつに割り、どちらが天下を取ることになっても、家系を絶やさない道を選んだのである。
関ヶ原の戦は、西軍が敗れ、父昌幸と幸村は敗者となる。しかし東軍に付いた兄信之は、父と弟を救うために必死の談
判をする。本来ならふたりは腹を切るところだが、ふたりは和歌山の九度山(高野山の政所)に流されて命を永らえた。
しかし幸村は、豊臣への忠義を最後まで全うし、大阪冬の陣が始まるやいなや、密かに大阪城に入り、今や風前の灯火
のようになった大阪城で必死の攻防を試みる。幸村は真田丸と呼ばれる出城を築き、ここに鉄砲隊を配置して、徳川軍の攻勢を食い止める。幸村の作戦によりひ
とまず講話とみた家康は、講話後直ちにこの真田丸を解体させる作戦に出る。その時家康は、幸村に叔父の真田信尹を使者として送り「信濃一国を与えるから我
が方に付け」と説得したが幸村はこれを拒絶したのである。
翌年夏には、再び大阪城は戦場となって夏の陣が起こる。今度幸村は、長い槍を用いて東軍の騎馬鉄砲隊を、破るなど
の奇抜な戦法を駆使して、東軍を硫黄島のアメリカ軍同様に恐怖の淵に追い込んだのある。また幸村は、綿密な計画を立てて、家康本陣を奇襲する計画を実行
し、家康が慌てふためき、自害の覚悟を考えるほどまでに追い込んだのであった。そしてついに幸村は壮絶な最期を遂げる。
私は栗林忠道の中に、真田幸村の影をみる。彼は手紙に次のように書いている。
「(前略)・・・若し私の居る島が敵に取ら
れたとしたら、日本内地は毎日毎夜のように空襲されるでしょうから、私達の責任は実に重大です。それで皆決死の覚悟です。私も今度こそは必死です。十中九
分九厘迄生還は期せられないと思います・・・夫として父として御身達に之から段々幸福を与え得るだろうと思った矢先此の大戦争でしかも日本として今最も大
切な要点の守備を命ぜられたからには、任務上やむを得ない事です。・・・最後に子供達に申しますがよく母の言付を守り、父なき後母を中心によく母を助け相
はげまして元気に暮らして行く様に。特に太郎には生まれ変わった様に強い逞しい青年となって母や妹達から信頼される様になる事を偏えに祈ります。洋子は割
合しっかりしているから安心しています。お母ちゃんは気が弱い所があるから可哀想に思います。たこちゃんは可愛がって上げる年月が短かった事が残念です。
どうか身体を丈夫にして大きくなってください。では左様なら。夫、父
六月二十五日認(したた)む」
(「栗
林忠道 硫黄島からの手紙」P11ー13)
栗林は、この後、四十通に及ぶ心温まる手紙を家族宛に認めた。私は一通一通の手紙が、これが最後の一通との気持ち
で精魂込めて書かれていることに、深い感銘を覚えると同時に切なさを覚える。彼はこの日が最後になる、今日こそは自分の最後の日だ、との思いを込めて家族
に自らの消息を知らせているのである。
中には、長男の手紙の誤字を一字一字訂正し、文は人の心が宿るものだから、丁寧に慎重に書きなさいというように、
自分の息子を遠い硫黄島の戦地から教育を施しているのである。今では教育の不在が言われ、家庭教育の是非が連日のように新聞テレビを賑わせているが、栗林
家の長男が、不良になったり、母を泣かせたりすることは絶対にあり得ないということを思う。つまりそこには真剣に今を生きる父の姿があり、その真剣で真摯
な生き様を目の当たりにする時、グレてやろうなどとは、絶対に思わないであろう。父の代わりとなって母を助け、幼い妹を背負い、勉強を教え、栗林家の屋台
骨となって生きようと思うに違いない。また幼いたこちゃん(次女たか子)には、読みやすいようにひらがなを多く使い漢字にはカナを振って、難しい字を随分
覚えて手紙を書いてお父さんはうれしいよ、というように、気を使っている。このような心優しい人物が、一方では真田幸村の遺伝子を持つ、猛々しい武人だっ
たのである。このコントラストが私には眩しく映る。
この本はおそらく古典として永遠に読み継がれ、語り継がれることになるだろうと思う。
細やかな愛情を持った繊細な人物栗林忠道氏の御霊に深い敬意をもって合掌したい。
戦後とは戦に散りし人人の犠
牲の上にあると知るべし
かの島のいづくにありや中将の白骨拾ゐ平和誓はむ
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