義経さんの首の謎


1、義経さんの首は焼けていなかった?!

「何故、義経さんの首と分かったの?義経さんの首は焼けていたのでは?」
そんな質問を受けて、はたと思うことがあった。確かにそうである。義経記の伝えることを現実のことと信用するならば、義経さんは、持仏堂に入って最期を遂げ、そこには火を放たれたはずだから、その首にはそれ相応の損傷があり、検証は難しかったはずだ。でも和田義盛や梶原景時という鎌倉の武将が、首実検を腰越の浜で執り行って、これは間違いなく義経さんだと確認したのだから、きっと保存状態は悪くなかったと推測される。

さて吾妻鏡の文治5年4月30日の条をみれば、
「4月30日。泰衡は源義経を襲う。義経は藤原基成の衣河館にあり。泰衡兵数百騎を従えて、合戦となる。義経の家来たち、これを防いだが、全て討ち取られてしまった。義経は持仏堂に入り、妻子を害して、自殺して果てた…」(簡訳佐藤)とある。

とすると、義経記の兼房という人物が、義経自害の後に、館に火を放って回ったという記事は、話を面白くするための虚偽の可能性があるということになる。もちろん現在の推定では、義経記の成立は、事件があってから200年から250年後位に口承を基にして成立した物語であるから、それも当然と言えば当然だ。

500年後に、平泉の高館に登った松尾芭蕉も、義経記の中の兼房の奮戦する姿を、この創作物語であるところの義経記によってイメージを膨らませ、奥の細道の平泉の条を書いたのである。

ところが、史実というものを、文献から冷静に読み解いてみれば、どうもかなりの違いがありそうな気がしてきた。要するに義経さんの首は、焼けた首ではなかったという可能性が高い。だからこそ、腰越の浜での首実検はスムーズに、これを義経さんの首と断定したのである。ましてこれが疑わしいものであれば、猜疑心に長けた兄頼朝がこれを認める訳がない。首実検は、ある種の儀式であり、すでにこれが義経さんの首であることを、彼は奥州に放ったスパイや内通者を通じて知っていたのである。

さてここからがこの推理の本番となる。
 

2、義経さんは下衣川で死んだ?!

一般に義経さんが、藤原基成の館に住んでいたという見解が広まった根底には、吾妻鏡の先の記述が影響していると考えられる。いつしか亡くなった場所である基成の衣河の館が義経さんの宿館であると読み替えられて衣河館がいつしか高館として混同し通説化したものであろう。

ではいったい衣河館は、どこにあったのか。これは難しい問題ではあるが、現在の高館の位置でないことだけは確かである。実際に存在した場所としては、ふたつの説が考えられる。まず現在の衣川村南限の下衣川と呼ばれる周辺にあったかもしれない。次に高館山は、その昔、東西820m余り、南北に230mほどもある小山であったというから、すでに流水に削り取られて消滅していることも考えられる。つまり結論から言えば、衣河館の比定地としては、衣川の南岸説と北岸説のふたつが考えられることになる。

そもそも衣河館という名称は、その昔、前九年後三年の役と呼ばれる戦によって、滅んだ安倍一族が一時の栄華を誇り、都の朝廷と戦いに明け暮れた衣川館の跡に造られた館であったと考えられる。それを素直に踏襲した可能性は高い。つまり三代秀衡公の時代における衣河館とは、平泉からみれば、衣川の向こう岸にある館であり、そこには藤原基成という都から来た貴人が住む場所であったと推定される。一方高館というものは、平泉館と言われる一画に位置する衣川南岸の場所にあったことになる。そして義経さんは、明確に衣川北岸にある衣河館で最期を遂げたことになる。

さて幼い頃、平泉の高館に連れて来られた時、誰だったか思い出せないが、一緒になった一人の古老から、こんな話を聞いた記憶がある。
「衣川の向こうで戦があってな、弁慶は義経さんを守ろうとして、奮戦した。河のなかで弁慶は必死で戦ったが、敗れた。その時弁慶は目を剥いて立っていたと言うが、もう既にその時は命が尽きていたんだ。それを弁慶の立ち往生というのだ。」

この時の、話は私に強烈な印象を与えた。折から高館から見える景色は絶景だった。衣川と北上川が交わる周辺には春霞がたち、煙って見えた。あの辺りで、義経と弁慶は死んだのか、そんなことを思った。義経さんの死には「水」あるいは「河」という清冽なイメージと弁慶の奮戦という「壮絶な死」のイメージが付いてまわっている気がする。それが一種独特の郷愁を人々に催させるのであろう。

このイメージを神話的に解釈すれば、どうなるであろう。例えば、平泉という都からすれば、義経さんは「河の向こう側」に渡って亡くなったことになる。そして弁慶もまた河を渡って、河で戦って果てた。そこでの「河」とは、異界との境界を意味し、義経さんは、自分の影(シャドウ)を象徴するだけでなく家臣の象徴としての弁慶という人物を伴い、冥界へ旅立って行くのである。これは父景行天皇の命を受けて、日本中を転戦し、戦の果てに亡くなったヤマトタケルの英雄の死とどこか共通する報われぬ死のイメージが漂っている。
 

3 義経さんの死に陰謀はあったか?

さて神話はイメージはこの位にして、義経さんは、どのように死んだのか。また何故、自分は刀を抜くことなく戦わずに死んだということが義経記で喧伝されるようになったのであろう。そこには何か、歴史の事実を反映している何かが存在するのかもしれない。

義経さんの死の真相を考える時に泰衡とその背後に居たと思われる祖父藤原基成の心理を考えてみる必要がある。何故いきなり藤原基成に行くのと思われるかもしれないが、この基成という人物こそは、義経さんの死亡と奥州藤原氏滅亡の鍵を握る人物である。再三、鎌倉の頼朝は、宣旨状という形式をとって、義経さんの首を差し出せと奥州を脅迫し、秀衡さんの遺言である義経公を大将にいただいて奥州を守れとのいう結束の誓いを分断するような脅迫的な文を送るのであるが、その文の宛名の順序は、「前民部少輔基成並びに秀衡法師の子息泰衡等・・・」ということになる。

奥州の政治構造は、秀衡の死によって、がらりと様変わりをしてしまった。次男泰衡が、跡目を継ぐ形になったのだが、その背後には外戚関係を巧みに利用する政治家藤原基成という人物がいた。年齢的は、基成は秀衡と幾つも違わないはずである。この都育ちの老貴族は、奥州の最高権力者秀衡に自分の娘を嫁がせるという実に藤原氏的なやり方で、奥州の実質的権力を握ってしまった。

基成は、武家ではない。どちらかと言えば、政治的な権謀術数に長けた人物のようである。政争には馴れているが、戦争は起こしたくないという生来の気質があるようだ。それは泰衡が、頼朝の鎌倉勢の勢いに押されて、平泉の館に火を放って、逃亡した時にも、何ら逃げることも自害することもなく、むざむざと一族四人でがん首を揃えて捕らわれてしまったことからも想像がつく。きっと基成の一族が、その官僚的な能力を持って、秀衡亡き後の泰衡政権を実質支配していたことであろう。

もちろん義経さんが憎いという訳ではない。義経の命を差し出すことによって、奥州は助かるであろうと、甘い考えを持ったということになる。泰衡は吾妻鏡では、義経さんより二歳年上ということになっているが、昭和25年の中尊寺の学術調査の結果明らかとなったその梟首(きゅうしゅ)された首をみると、どうもひ弱で幼いイメージがある。とても生き馬の目を抜くような当時の政治状況の中で生き残れるような感じはない。きっと基成の一言で、義経さんの命を差しだして、一難を逃れ、奥州権力を存続させようとの策に乗ってしまったのであろう。

はじめに基成と泰衡の心理を考えるべきと云った。その意味は、戦の天才である源義経をどのようにして葬るか、という策は、考えるだけでも怖ろしいような策である。ひとつ間違えば、たちまち逆襲にあって、殺されかねない。頼朝の命令によって、義経を都で襲った鎌倉武者土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)は93騎をもって、義経さんの不意を狙ったが、たちまち捕らわれてその首を取られて晒されてしまった。

陰謀をする者には、陰謀を発覚した時の恐怖心はつきまとうが、それが義経さんともなれば尚更である。日本史の中で、有名な陰謀と言えば、「蘇我入鹿の暗殺」(645)であろうか。これは後に大化の改新と呼ばれることになるが、明らかな時の権力転覆を狙った政治的クーデターであった。その時、首謀者は、中大兄(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(藤原)である。入鹿は、大人油断のない大政治家であった。普段は、常に刀を携帯し外すことはほとんどない。彼から刀を外させる理由をつくる。それを三韓が天皇に貢ぎものをする時を狙うのである。当然その席であれば、入鹿の刀を外させることができる。同時に護衛の者も排除できる。天皇や外国からの特使が来ている所で陰謀が張りめぐらされているとは誰も思わない。そして大極殿の扉は堅く閉ざされ、蘇我入鹿という当時の天皇の権威をも凌ぐような最高権力者暗殺の舞台は整えられたのである。

私は義経さんの首が、焼けた首ではなく、美しいままで、鎌倉に届けられた裏には、こうした陰謀があった可能性があると思うのである。以下その理由を述べることにしよう。つづく
 
 

 


2002.9.20
2002.10.7
 

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