タイムマシンに乗って義経さんの首実検を見にゆく
好天の昼下がり、腰越の浜の写真を撮るため、江ノ島に渡った。鳥居に黙礼すると、モース記念碑の前の岸壁に立って、じっと小動岬から腰越の浜を眺めた。5月だというのに今日の江ノ島は、初夏を思わせる陽気だ。直射日光が、紺青(こんじょう)色の海に反射して煌めいている。海はどこまでも青く穏やかだ。カメラを構えると、白い釣り舟が、この地に棲むという青龍のように長い航跡を残しながら悠然と通り過ぎて行った。
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腰越周辺の景観はかなり違っている。かつて渚の位置は、龍ノ口の付近にあった。あの日蓮上人の処刑も挙行されようとした場所だ。幕が張られているのが見える。ここで義経さんの首実検が行われたのだ。きっとあの白い幕の中で、運ばれてくる義経さんの首の真偽が検討されるのであろう。もちろん首実検は、儀式に過ぎない。義経さんの首が本物であることは、既に何日も前の検分で判明している。
白い隊列が藤沢の方から、ゆっくりとした足取りで入ってくるのが見えた。故藤原秀衡の四男、藤原高衡を先頭にして、義経さんの御首が厳かに運び込まれてくる。八十名ほどの葬列だ。奥州の武者たちは、皆、白装束に身を包み、皆唇をきつく結んでいる。生首の納められた黒櫃(こくひつ)は、天秤棒を渡して、前後二人の武者が担っている。その周囲には、10名ほどの蝦夷の血を引く屈強な男達が刀を差して付き従っている。 あの首桶には、義経さんの生首が納められている・・・。義経さんの首桶には、たっぷりと美酒が注ぎ込まれていた。アルコール分によって、生首の腐食を防ぐためだ。赤い染料によって腐食防止処置が採られたとも云われる。奥州には三代の御館(みたち)の御遺骸を生けるが如く処理する技術があった。たかが43日の腐食処理など朝飯前のことだった。 沿道には、稀代の武将の葬列を一目見ようと、黒山の人が出て見守っている。手を合わせて拝んでいる人があちこちに見える。中に、「亡くなっても、鎌倉に立ち入ることは許されないのか」と呟く翁がいた。また零れる涙を拭おうともせずじっと通り過ぎる首桶を見つめる少女がいた。 やがて、隊列は龍ノ口の渚に張られた幕の前に到着した。黒い首桶はゆっくりと、開かれた幕の隙間の中に吸い込まれた。中には、あの讒言の徒梶原景時と悲劇の忠臣和田義盛がいる。いずれも義経さんのことをよく知っている人物だ。梶原は嬉しさ半分、怖さ半分の心境だった。自分に義経さんの怨霊による障りがあると恐れおののいていた。 2
いつも近しい者には耳元で、「あの殿の発想は鬼道であって弓馬の道ではない。あんな殿の下にいたら命がいくらあっても足りない。一ノ谷は偶然であって、戦術としては下の下の策」と語った。 京都の院や公家たちが、一斉に義経さんに賛辞を送り始めた。「手柄を独り占めにした。」、「勝手に従五位の下の位を賜った」と、最初に義経さんを避難したのも、景時だった。直ぐさま、雑色に、讒言とまではいかないが頼朝の心証に決定的な影響を与える文を送った。 「弟君は、一ノ谷の手柄を良いことに、まったく殿の面目を失うような振る舞いが目立ちまして、実に不安でございます。特に今回の任官については、言葉にもできないほど唖然といたしました。お諫めの言葉も通ぜず、どうして良いか分からぬ有様です・・・」 直ちに、頼朝は、鎌倉軍の身内の不協和音に眉をしかめて、義経さんを疎んじ始めた。景時は内心、しめしめと思った。このまま、この増長した義経を封じ込んでやると強く思った。景時は、再び文を送り、八島に向かった平家は、増長した義経さん抜きで可能というようなことを書き送った。しかし一向に掃討は作戦は効果を上げない。結局、頼朝は、義経さんを戦場に向かわせることにした。面白くないのは、景時だ。そして、トラブルは、すぐに起こった。世に逆櫓論争として有名なあの事件である。 3
いやな思いでだ。思い出しただけで、背筋から嫌な汗がひたひたと流れる。その時、今は生首となった義経は、嵐を突いて摂津国渡辺の港から平家軍の参集する四国に攻め立てようとした。無謀な策と思いこの景時は、「櫓(ろ)を逆さに造作して、万が一嵐がひどければ戻ることも肝心」と進言した。すると義経は、「戦というもの、一旦ことを起こしたら、一歩も引かぬという覚悟をもってやるのが肝心。それでも戦場が一変すれば引くこともある。但し、はじめから逃げる算段などは問題外。まずは門出に相応しからぬ策である。そなたの舟には櫓も逆櫓も百でも千でもお付けなさるがよかろう。この義経の舟には一切無用のこと」とほざいた。 そしてあの夜、此奴(こやつ)は、大嵐の中をたった五艘の舟に、自らの近従ども八十騎ばかりをつれて、闇の海にこぎ出した。正直、ワシは、ほっとした。難破するに違いない。いや難破して死んでくれ。そう思った。僅か二百艘の内の五艘だ。生意気な奥州育ちの小冠者の命運もこれで尽きる。明日は躯(むくろ)となって、近所の浜にでも打ち上げられるか、それとも大鮫の餌食にでもなれ。愚か者めが。この景時の進言を聞かぬ罰だ。一の谷の偶然を我が実力と勘違いした増長者に天罰が下る。鎌倉殿には、これで申し訳が立つ。「この景時の止めるのも聞かず、弟君は嵐の海をこぎ出して亡くなられた」そう言えばよい。これで目の前の支え棒が無くなるというもの・・・。 その夜は、嵐の戸を叩く音ではなく、胸が高鳴って眠れなかった。ところが、まったく予想外のことが起こった。奴らがこぎ出してから五日後、屋島の磯に、到着してみれば、勝負は既に決していて、「喧嘩の後の棒」とまで、奴らに嘲笑された。顔から火が出るような恥をかかされた。どうしてだ。あの嵐の海をこぎ出して四国勝の浦に着いたのも奇跡なら、何千という平家軍を、義経は僅か八十騎で打ち破ってしまっていた。ぞーっとした。確かにこの義経には鬼神がついているに違いない。そんなことを思った。陰陽師のように式神を自由に操っているのか。鞍馬山での修行で此奴は確かに何か神妙なる力を授かったに違いない。そう思うしかない。 ただ、ひとつ、屋島の戦いでは此奴の一の重臣佐藤三郎兵衛継信が戦死した。このことを語る時の苦悶の表情と涙に、此奴の弱さをみた。情が深いのは、悪いことではない。ただ戦の総大将ともなれば、そんなことに煩わされているようでは、瞬時の判断などできようものか。この時の恥をワシは深く胸に刻んで、この男を一生恨んで、歴史の表舞台から引きずり降ろしてやる。そう思った。 4
白い幕の奥に、義盛と景時が並び、二人の郎等たちが、義経さんの首が据えられている周囲をぐるりと取り囲んでいる。黒漆の台に薄化粧を施された義経さんは、やや薄目のまま、二人の武者を正面に見据えている。その表情は、無念というよりは、自分の与えられた生涯を精一杯生きたという自負が見受けられた。
義盛は、悲しみを整理しきれぬまま、この場にやってきた。義盛は義経さんより12才ほど年かさである。戦場では、冗談も言い合い、夢を語りあったこともある。鎌倉の御大将頼朝に謀反を起こすことなどはあり得ない。一ノ谷の戦の折りには、この人物の畏るべき才能と執念を目の当たりにした。あの時、目の前にいる人物は、丹波道を深く入り、生田の森から一ノ谷に背水の陣を張った平家の陣形を、背後から、逆落としに下り、僅か80騎の手勢で崩して見せた。源平合戦の膠着状態は、あの奇襲において一瞬にほどけてしまった。こうして平家の兵たちは、次々に討ち取られ、残った者たちは明石の海原を四国へと逃げて行った。 首実検開始を告げる太鼓が打ち鳴らさ、その音に急かされるように、義盛は、席を立って口上を述べた。 「さて、今から、前伊予守九郎判官義経の首実検を始める。当人は、叔父の義行らと計り、実兄源頼朝殿に謀反の情を抱くにいたり、京において、あろうことか院に迫り、鎌倉追討の宣旨(せんじ)を強奪し、天下を我が意のままにした罪状明白なり。その後、奥州前陸奥守藤原秀衡の下に逃亡し、ここにおいても、謀反の情止みがたく、鎌倉殿に一太刀浴びせんとて、鎌倉打倒の詮議を重ねたる罪状明白なり。この度、奥州の新たなる御館(みたち)となりたる藤原泰衡殿、鎌倉殿に謀反無き心を見せようとして、かかる天下の大悪人九郎義経を衣河の館にて成敗し、その御首(みしるし)を持参せしものなり。これから詮議するにあたり、奥州御館泰衡殿の名代となりて、御首をこの場に備えたる奥州本吉庄司藤原高衡殿より、この御首の真偽につき、相違なきを宣誓いただくことといたすものなり」 5
しかしここにいる者たちは、奥州の武者も、鎌倉の武者たちも、皆義経さんをよく知る者ばかりだ。彼らの多くは、今でも義経さんを深く尊敬していた。誰もが無私無欲の人であると義経さんを知っていたからだ。彼らは、何でこの人物が、鎌倉にも入れられず、生首となってしまったのか、未だに理解できないでいる。世が世ならば、頼朝公と並び立ち、天下に号令をかけていた英雄だ。
白い直垂に烏帽子を冠した高衡は、大柄な体を折り曲げるようにして、義経さんの首の前に進み出でてこのように申し述べた。 「さても、このような儀に際し、奥州御館藤原泰衡の代理として、参った者ではござりますが、我が奥州には、鎌倉殿に謀反を企む思いなど毛頭無きことをお伝えするために、このように白き衣にて、参上致しました由、まずもって、申し上げるものでございます。ここにある御首に付きまして、ここに居られる侍所別当和田義盛殿並びに副別当梶原景時殿、周知の通り、前伊予守九郎判官義経の御首に相違なく、ここに宣誓申し上げます。さて、その証拠には、右の額に幼少の頃に負いし太刀の傷あり、また右の耳に小さきホクロがあり、よくよく吟味検分くださりますようにお願い申し上げます」 既に、首の内検は、済んでいる。徹底的に義経さんの首である証拠は集められ、その調査報告書は、公文所別当の大江広元を通じて頼朝も北条時政も読んでいた。式次第に則り、義盛に続いて、景時が生首に接近し、額の傷と、耳のホクロに目をやり、「この御首、前伊予守義経に相違なし」と宣言した。さて景時は、無礼にも扇子を取り出し額の傷を指しながら、「うむ」と疑う仕種をしながら、「高衡殿、この傷は、誠に罪人のものかな。ちと新しい太刀傷にも見えるがの」と質した。景時の額からは、一段と汗が滴り出るように流れ落ちている。 「滅相もございません。義経の傷は、右の額一寸五分ほどのものであり、鞍馬山で修行の折りに付いたものと聞いております」 「それから・・・」と扇子を右の耳に触れて、「うん、このホクロは、まさに義経のもの。」と義経さんの頭をピシャリとやった後、「この御首、義経に相違なし」とやった。「三つ子の魂百まで」という言葉がある。いったん持ってしまった性格は容易に変えられるものではない。今の今まで、義経さんの怨霊の障りが怖かった景時だが、憎まれ口や他人をけ落とす壺にはまったら、何も怖いものなどなくなってしまう。それがこの男の性格だ。 つづく |
海の青変わらずにして腰越に無念遺せし人の影視む