小笹寿司のアジから日本的美を考える 


 
    小笹寿司で、アジを摘みながら考えた。「美というものを定義するほど難しいものはない。ある人が、花が散るのを美しいと見ても、それが汚いと見る人もい る。本当にこのアジは旨いのか、それとも生臭いのか?」

    すると奥からリーン・リーンと虫の声が聞こえてきた。
    「あれ?鈴虫ですか?」と新おやじの西川さん聞けば、
    「判りました。築地で仕込んで来たんですよ」
    「へー。築地では魚ばかりでなく、虫まで売ってるんですか」
    驚いた。でもいい声だ。透き通った声が、魂の奥まで、入り込んで来る気がする。日本人は、鈴虫の声を聞いて、涼を感じ、心地良くなる。しかし一般的に西洋 人は、この声を聞いて、心地良くなることはないと云われている。感覚が違うというのである。それはおかしいと、知っているアメリカ人に聞いたら、「鈴虫で すか?判ります。とても美しい声ですよね」と云ってニヤリとした。要は西洋人でも、日本的な美に触れて、「いい声だね」と云えば、それに反応して、いい声 と感知するようになるのである。

    ここに美の面白さがある。日本人の美意識というものを知らぬ西洋人に同じ事を、聞いたら、確かに「鈴虫の声のどこに美があるの?!」と首を傾げる人が多い だろう。そこで日本人は、「虫の声にそこはかとない風情を感じて、それを詩歌に詠んできているんですよ」と言えば、それは日本人の文化を教えることにな る。文化とは、そもそもモノの見方、感じ方のことに他ならない。こうして異文化を持つ人間に、別の見方感じ方が伝わって、その人の中で、美に対する葛藤が 生まれるのである。

    日本人の持つ見方感じ方は、文化そのものである。つまりある時に感じる美とはある文化圏の中で、長年培われた末に、形成された感覚なのではないかというこ とだ。

    味覚も又文化である。西洋人にいきなり、寿司を食わせたらどうなるか。こんな生臭い、しかも辛いもの食べ物ではないと、吐いてしまうかもしれない。しかし 日本ではこれが最高のご馳走であり、健康にも良い。ということを、まず最初に含ませ、次に寿司ネタの仕込み方、食べ方の作法を順を追って話して行けば、そ の寿司というものに込められた日本人の食文化の深さというものに感嘆し、最初は、生臭いと思っていたものが、実にほどいい美味な食べ物に感じられて来るの である。
    そこで、トドメのように、「寿司の味を分からなければ、日本は分かりませんよ」などと一言云えば、たちまちその人は、寿司通の西洋人と化してしまうのであ る。

    ところで、日本人で、日本の文化を本当に理解している人などいるのか?よく西洋人に「ワビ・サビが分かりますか?」などと云って得意顔をしている人間がい る。馬鹿なことは云わぬ方がよい。「ワビ・サビ」など、日本文化のほんの一部分に過ぎない。そもそもこのワビサビの感覚は、この400年ほどの歴史の中で 形成された感覚で、ワビ・サビなどとまったく対極にある強烈な文化がある。それは1950年代に、岡本太郎が、縄文土器を見た瞬間に発見した日本文化の古 くて新しい美である。今まで、縄文土器は、古くさい縄文人が作った幼稚な土器と思われていた。ところが、フランスのソルボンヌ大学で、世界最先端の美学を 勉強してきた岡本太郎が、「これは何という美だろう?!」と腰を抜かすほど驚嘆したのである。

    それから日本における美の基準が一変した。岡本の発見以来、縄文式土器は、弥生式土器などよりも芸術性の高いものではないか、と言われるようになり、梅原 猛のような学者まで、「日本文化の底流には、縄文と弥生のふたつの文化の流れある」と、岡本の発見を追認するまでになった。だから知ったかぶりが、日本文 化を「ワビ・サビ」などという云って得意がる傾向はお笑い草なのである。

    「ワビ・サビ」文化論など、日本文化の一側面に過ぎないのだ。そして敢えて誤解を恐れずに云えば、この「ワビ・サビ」を日本文化と見る感覚は、去勢された 日本文化の一側面であり、それを日本文化全体の如く言うのは止めてもらいたい。所詮、「ワビ・サビ」文化なんて、生命の躍動や熱情をそのまま伝えるような 縄文文化の対極に位置するものでしかない。両極の陰陽があっての日本文化だ。さてそこで最後に短い結論を導こう。要は小笹の寿司を本当に美味しいと感じる には、時間が掛かるということだ。佐藤


 


2003.7.23
 

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