芭蕉の辞世句「この道」

 
芭蕉の最晩年の句に、

この道やゆく人なしに秋の暮れ

という句がある。彼が亡くなる一ヶ月余り前の句である。

この句は、まさに彼の最晩年の心境そのものであり、事実上の辞世の句とも見られている。したがって句の冒頭の「この道」とは、彼が生涯を賭けて追求してきた俳諧の道にほかならないであろう。

「芭蕉」というと、大概の人は、俳聖とか天才とか思っている人が多いようだが、そんなことはない。芭蕉という人物は伊賀国の上野から京都、大阪を経て江戸に渡り、水道工事などの職業で命を繋ぎながら、幾多の困難を乗り越え、やがて俳諧の宗匠となり、自らの一門を形成するようになった努力の人であった。それが晩年には、組織の拡大とともに様々な考え方の人間が、習合することによって、宗匠としての芭蕉自身も収拾出来ないような混乱が各地で生じ、命の瀬戸際まで気を揉んでいたようだ。その意味で、この句には、トップに立ったものの、孤独と悲哀がにじみ出ているような気がしないでもない。

芭蕉が亡くなったのは、元禄7年陰暦10月14日(1694年)であったが、その四日前に、自分の余命幾ばくないことを悟った芭蕉は、江戸にいる弟子の杉風(さんぷう)宛てに、次のような遺言を側の者に口述させた。

「杉風へ申し候。ひさびさ厚志、死後まで忘れ難く存じ候。不慮なる所にて相果て、御いとまごひ致さざる段、互に存念、是非なきことに存じ候。いよいよ俳諧御つとめ候て、老後の御楽しみになさるべく候。」

大意は、杉風殿に申し上げる。これまで長々と心遣いいただいた事、この芭蕉死んでも忘れられるものではありません。突然のことにてここで相果てる身となり、これまでのお礼を申し上げるべき所なれどもそれが叶わず、お互いに誠に心残りなことです。しかしこれも天命仕方のないことと覚悟致しております。貴殿には、益々俳諧の道を精進なさり、この道を老後の楽しみとなさられたら良いかと存じます。

ここで気になるのは、最後で、杉風に「老後の御楽しみにさるべく」と言ったか?という事である。もしも杉風に対して、真に俳諧の道を継ぐ者と芭蕉が認めていたならば、きっとこのような言い方はしなかったはずである。

例えば、先の遺言は「いよいよ俳諧御つとめ候て、この道のその奥々までも行かれむ事頼み申し候・・・」となったはずである。はっきり言って、芭蕉は、自分が歩いて来た道を更に辿っていくべき弟子が自分の廻りには皆無であることを自覚していたのである。

芭蕉という人の、俳諧に賭ける姿勢というものは、余暇とか趣味とかそのようなものではない。
そのことは野ざらし紀行(1684年:貞享1年)の冒頭にある覚悟の句、

野ざらしを心に風のしむ身かな

によく現れている。野ざらしとは、行き倒れとなり、野に白骨となっている有様を指す。だからこの句を私が解釈すれば、このようになる。
「野ざらしとなった自分を思い描きながら、野辺の道を歩いていると、寒風が心までも染み渡るように吹き付けてくる」

芭蕉は、一つの道を志す芸術家である。そのような人物、そのような覚悟を持った人物はおいそれと、そんちょそこいらにいるものではない。

芭蕉は、「笈の小文」(1687年貞享4年)の中で道についてこのように言っている。  「西行の和歌における、宋祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その道を貫くものは一つなり。」

つまり芭蕉が目指した道というものは、日本文化史上で、芸道あるいは芸術の神様に選ばれた人々が歩き到達した道を、いつの間にか自覚し、そのバトンを受けて歩いてきた人物なのだ。実に西行から見れば、500年の年月が経っていることになる。その間、芭蕉が道を追求したと認めている人物は、僅かに4人しかいない。おそらく世阿弥も入るであろうが、芸術家としての世阿弥が注目されだしたのは、「花伝書」が世に出た近代になってからであるから、世阿弥の芸術家としての存在価値を意識できなかったことも考えられる。どうしてこの日本文化そのものに深く根ざした芸道の道に芭蕉という一俳諧師が到達したかは永遠の謎である。

「この道や」の推敲過程で、芭蕉は、次のよう句を詠んでいる。

 ”人声やこの道帰る秋の暮”

つまりここにおける「この道」とは、人々が往来する街道のことであり、そこには大勢の人が道を狭しと歩き、ざわめきが聞こえてくるのである。ところが推敲の果てには、人が居なくなってしまう。これは芭蕉が意識的に、「この道」の意味を普遍的な「この道」に意味を置き換えて居るからである。

芭蕉は、よくこの手を使う。つまり句に二重の意味を持たせる手法である。例えば、奥の細道(1689年:元禄2年)の中の立石寺で詠んだ句に

”閑けさや岩にしみ入る蝉の声”

という句があるが、おそらく最初に発案した時は、

”山寺や石にしみつく蝉の聲”

であったとおもわれる。大体、立石寺に夏に行ったことのある人ならはっきりわかるのだが、立石寺の前で、蝉たちは怖ろしいほどけたたましく騒々しいものだ。ところが、昔からこの句においては、馬鹿の一つ覚えのように「にーにー蝉」か「油蝉」かなどという「蝉論争」が起こってきた。

私からすればこれはまったく馬鹿げた論争である。それは少しも芭蕉という俳諧の達人が達した芸術の本質を突いている論議ではないからだ。この句における本質的なるものは、何故騒々しいはずの情景が、「閑けさや」とまったく違う情景にデフォルメされたかという一点である。結論から言えば、芭蕉は、そこに命というものの儚さを見た。

あの立石寺には、行く途中の岩肌に穴が掘られているが、その穴の中には、檀家の人々の遺骨が埋められている。だから岩にしみ入るのは、蝉の声ではなく、力一杯泣いている蝉の生命そのものなのである。いやもっと言えば、それは自分の命までもが、時間という強烈な力の前に岩の中に引きずり込まれてしまいそうな体験であった。その時、芭蕉の中で、一瞬にして蝉の声が消えた。それが「閑けさ」ということの意味である。つまり目先の立石寺と蝉のことを詠みながら、その先では、普遍的な命と、その儚さを17文字の中に封印して見せていることになる。

私のこの説に異議を唱える人もいるだろう。佐藤よ、考え過ぎ、もっと単純に捉えるべきであろう、と。しかしそのような人には次の証拠を提示しておこう。先の立石寺における蝉の体験は、芭蕉にとって、実に強烈であった。元禄3年夏、幻住庵(1690年元禄3年)という所で、芭蕉は次ぎのような句を詠んでいる。

”やがて死ぬけしきは見えず蝉の声”

この句の中では、まさに「閑けさや」の句以上に、命の儚さに対するこだわりが強烈にじみ出ている。このこだわりと読み手のレベルによって幾重にも重層的に解釈できる深みこそが、芭蕉という芸術家の真骨頂なのである。

さて結論である。「この道や」の句には、次のような意味がが込められいる。つまりこの道とは、芭蕉が、尊敬して止まない芸道の先人たちが切り開いた道のことをを意味し、そこに現在は誰もいないことを嘆きつつも、しかしいつかは時と所を越えて、必ず「この道」を辿る者が現れることを信じて死んでいく己の生き様である。この句では、芭蕉の奥深い思想が、非常に軽い感じ(「軽み」の境地)で見事に17文字に凝縮されている。まさに芭蕉芸術畏るべきである。

松尾芭蕉は、この句を詠んで一ヶ月後、51歳のけっして長くはない生涯を終えた。しかし何と濃厚濃密な生涯だったことだろう。やはり彼は道の達人であったのだ。佐藤
 
 


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2000.11.17