義経公終焉の地を考察する

平泉館と衣河館


1 吾妻鏡を読み直す

源義経公が、高館で亡くなったことは、「義経記」の影響によって定説化しているが、果たしてこのことは事実なのであろうか。少しこの義経公最期の地と比定されている問題を考えてみよう。 

「義経記」の成立は、実際に義経公が亡くなってから二百年以上も経ってから書かれたものであり、かなり意図的に創作されたと見受けられる部分も多く、義経記の内容を単純に信ずることはできない。おそらく高館を稀代の英雄の最期の地と作者が比定した根拠は、正史である「吾妻鏡」の次のような記載によって、もたらされたものであろう。 

「吾妻鏡」の文治5年5月12日(1189)の記述に、「奥州より飛脚がやってきて、去る4月晦日に民部少輔(藤原基成)の館において輿州(義経)を誅殺した。その首は近々送り届けます」(意佐藤訳)とある。意が叶って大喜びの頼朝は、同日、早速次のような手紙を書いて、京都に送り届けたのである。 

「去る四月の晦日、前民部少輔基成の宿館(奥州)において義経を誅し致しました、と泰衡が報告してまいりました。・・・恐々謹言」(意訳佐藤) 
 

原本では以下のような記述になっている。文治4年5月12日。「辛巳。申剋。奥州飛脚参着。申云。去月晦日。於民部少輔館誅与州。其頸追所進也云云。則為被奏達事由。被進飛脚於京都。御消息曰。去閏四月晦日。於前民部少輔基成宿館。(奥州)誅義経畢之由。泰衡所申送候也。(中略)頼朝恐々謹言。(吾妻鏡)

この5月12日が、鎌倉に正式に奥州政府から政変劇(義経公の殺害)の第一報が届けられた日であろう。その後、吾妻鏡は、4月晦日の条に、義経公の死亡確認として次のような下りを挿入した。これはもちろん正史の体裁を整えるためである。

今日、陸奥の国において、泰衡が源義経を襲った。これは勅令と頼朝公の指示にしたがった結果である。義経はこの時、民部少輔基成の衣河館いて、泰衡は数百騎の兵をもって、その場に押し寄せ合戦となった。義経と家来の者たちは、よく防戦して戦ったが、ことごとく討ち滅ぼされてしまった。義経は、最期に持仏堂に入り、まず二十二歳になる妻と四歳になる女子を殺害し、次に自害して果てたとのことである。

原本では以下のような記述になっている。文治4年4月30日。「己未。今日。於陸奥国。泰衡襲源予州。是且任 勅定。且依二品仰也。与州在民部少輔基成朝臣衣河館。泰衡従兵数百騎。馳至其所合戦。与州家人等雖相防。悉以敗績。予州入持仏堂。先害妻(廿二歳。)子(女子四歳。)次自殺云々。(吾妻鏡)

さてここまでの吾妻鏡の記述で、義経公が、最期に居た場所が、基成の館であることは明確なようだ。ただ注意を要するのは第一報である5月12日の記述が、襲った場所を「於民部少輔館」、「於前民部少輔基成宿館」というように館の名称を曖昧に記載していたのを、後で挿入したと思われる4月30日の条では、「民部少輔基成朝臣衣河館」と明確に館の名「衣河館」を記していることである。後の世では、この吾妻鏡の下りが影響して、義経公は、普段からこの基成の宿館である衣河館にいる如く喧伝されているが、実はこれについては明確な根拠がない話である。
 

次に9月17日の記述にこのような箇所がある。「館の事(秀衡)。金色堂の正方、無量光院の北に並んで宿館(平泉の館呼ばれる)を構える。西木戸に長男の国衡の館があり、同じく四男の隆衡の宅が並んでいる。三男泉三郎の館は泉屋の東側にある。秀衡自身は、無量光院の東門に一郭を構えて、これを加羅御所と呼ぶ。これが普段の生活の場である。後に秀衡がこれを継いで館とした・・・」(意訳佐藤) 

原本の記述では次のようになっている。「(前略)一 館事(秀衡) 金色堂正方。並于無量光院之北。構宿館。(号平泉館。)西木戸有嫡子国衡家。同四男隆衡宅相並之。三男忠衡家者。在于泉屋之東。無量光院東門構一郭。(号加羅御所。)秀衡常居所也。泰衡相継之為居所焉。」 

さてこの9月17日の記述にある秀衡の宿館のあった場所は明らかに現在の高館の場所であることが分かる。それは「無量光院の北に並んで」という記載からもほぼ特定しても差し支えないであろう。では、基成の宿館を、吾妻鏡の作者は、先の4月30日の条では、「民部少輔基成朝臣衣河館」とし、それより記述が早いと推測される5月12日の条では「民部少輔基成宿館」としていた。このことから、同じ「宿館」とは言っても、宿館すのものが不特定な館一般を指す「一般名詞」であり、この前には必ず「誰々の宿館」というように特定されなければならないはずである。もう皆さまお分かりだろうと思うが、義経公が亡くなった場所は、高館にあった秀衡公の宿館「平泉館」ではなく、基成の宿館「衣河館」に相違ない。

確かにこの「平泉館」と「衣河館」を混同は、誰でもしてしまいそうな錯誤である。この結果、義経公は、その後、高館において、自刃し果てたことにされてしまった。だが今こそこの混同がはっきりした以上、その亡くなった場所は、伝説上はともかくとして明確に改められなければならないであろう。
 

2 衣河館はどこにあるのか

では衣河の館すなわち基成が住んでいたという宿館はどこに存在したのであろう。衣川の館の比定地は、現在の所はっきりしていない。

ここで参考として、芭蕉の「おくのの細道」を読んでみることにしよう。
「三代の栄濯一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。」

芭蕉は、あらかじめ、平泉の地形と地名については学習していたようだ。例えば「衣川が和泉が城をめぐりて高館の下にて大河に落ち入る」という記述は、何かに記載された文書からの引用のようにも思える。芭蕉が訪れたのは、平泉という地が滅びてから500年後の事であるが、その地形はかなり変化していたはずだ。まず高館は度重なる水害によって、北上川の流れも変化し、高館山はその度に山肌が削り取られて大きさが大幅に小さくなってしまった。

かつての高館山は、その大きさは東西820m余り、南北に230mほどもある小山であったという。芭蕉が観た高館山は、現在ほどではなかったはずだが、奥州藤原氏全盛の頃とと比べれば、遙かに小さな山であった。だから衣川が、高館をめぐって北上川に流れる様を当然芭蕉は見ていないことになる。おそらく往時と比べれば、間違いなく我々が観てていた景色に近かった。今我々は芭蕉から数えて、312年後の高館からの景観を観ていることになる。

さて一般に平泉周辺の地域では、義経公は衣川で亡くなった、と言われることが多いようだ。とすると、この口承は、吾妻鏡にある「民部少輔基成朝臣衣河館」で亡くなったという説と一致する。ただしここには混乱があり、「衣河館」と「平泉館」を過去の歴史家がことごとく混同して使っている事実を指摘しないわけにはいかない。混同する理由は、おそらく、高館山の地形が度重なる北上川の氾濫によって、著しく狭隘なもの変化してしまい、かつて基成が宿館とした衣河館そのものが、この世から消失してしまったことによるのである。

私が敬愛する相原友直翁(主著平泉三部作と呼ばれる「平泉実記」「平泉旧蹟志」「平泉雑記」などを著した人物。1703?1782一ノ関に没)ですら、「衣川館、又高舘とも云ふ、百年程以前、古城跡を記せるには、東西四百六十間餘、南北百三十間、高さ五十間とあり、其頃は、北上川東山の麓を流れしが、今は此館の下をながる、昔の地圖を以て見るに、百年以來の事なり、度々の洪水に崩れかけて今は甚せまし・・・」(平泉舊蹟志)と説明している程だ。この相原翁の説もおそらくその前の口承と正史である吾妻鏡や義経記などの実証的検証によって生まれたものであろうが、優れた研究者の誤謬は、当然その後を引き継ぐことになる。

「平泉志」を著した高平真藤翁(1831?1895一ノ関に没)なども、「高舘(たかだて) (又衣川館と号す)源義経の旧跡なち、里俗之を判官館とも云へり、中尊寺の東にありて八町余を隔つ。今其所在を高舘と云り、此館趾は百年前の古城書を考ふるに東西四百六十間余南北百三十間余高五十間なり、当時北上川東山の麓を流したりしも今は此館の下を流る古昔の図を以て之を見れば百年以来の事にして、しばしば洪水の為に崩壊し、今は狭隘甚しと相原氏の雑記に云り、・・・」などと記述している。

今、我々はまず、吾妻鏡の記載していることに立ち返りその吟味をする必要がある。そして高館は今より遙かに大きな山で、現在の高館は平泉館と呼ばれる秀衡公の宿館で、衣河館と往時呼ばれていた基成の館は、高館の遙か北方に位置し、衣川と接していた場所に位置していたことになる。いかに衣川の流れる位置が変わったにせよ、その方が、すべての話の辻褄が合うのである。(つづく)


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2001.4.4