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カントの「永遠平和のために」を読む

−国際連合の制度老化?−


 
1 国家もひとりの人間

カントの(1724-1804)の「永遠平和のために」という刺激的なタイトルの著作の中に、次のような言葉がある。
「国家としてまとまっている民族は、個々の人間と同じように判断されてよい。(中略)そこで各民族は自分たちの安全のために、それぞれの権利が保障される場として、市民体制と類似した体制に入ることを他に要求でき、また要求すべきなのである。これは国際連合と言えるが、しかしそれは当然諸民族合一国家ではないであろう。(岩波文庫「永久平和のために」p38:宇都宮芳明訳)

この本は、カントが1795年、71才の時に書いた著作である。興味深いの、民族国家を一人の人間個人と見なして、市民社会と同じような機関として「国際連合」のような組織を想定していることである。私は、民族国家というものを一人の人間になぞらえるカントという人物の感性である。もちろん国家の中には、様々な考え方や宗教的な違いもあろう。しかしそれを乗り越えて、国家を一個の人間と見る所に興味をそそられるのである。

考えてみれば、人間個々人も、様々な考え方を受容しながら、左右に道があれば、右か左かと、進べき道を前に迷うことしきりである。左に行けば、幸福な運命が待っていたはずなのに、右を選んだために破滅することだってある。国家も同じだ。いつも迷いながらも、様々な情報を分析した上で、国家の進むべき道を歩んでいくのである。

2 日本という国家の伝統的イメージ

さて日本という国家を、一人の「日本」という人間になぞらえて、外から眺めてみれば、どのような性格の人物と映っているであろう。つい最近、ニューヨーク同時多発テロ事件のすぐ後に、アメリカの国務副長官のアーミテージという人物から、「ショウ・ザ・フラッグ」と言われて、慌てた日本政府は、どうしたことか、「旗を見せろ」と直訳をしたのか?!アメリカ軍の後方支援という名目を立てて、自衛隊の軍艦をインド洋沖に派遣することを早々と決定してしまった。これは決して笑えない冗談だ。

これが「日本」という人物(国家)の偽らざる人格を見事に表現しており、先のアーミテージ発言の背景には、「強く出れば日本人は必ず折れる」という日本人論があったと見るべきだ。要するに日本政府は、自身の性格を見透かされていたのである。この「強く出られれば弱い日本人」という考え方は、アメリカが日本を開国した黒船の時代から、アメリカの外交官たちが、経験と研究の末に構築してきた体験的日本人論である。

この日本人に対する考え方は、第二次大戦前もそして大戦後にも、現ブッシュにも、間違いなく引き継がれている対日政策の基本そのものとなっている。しかもこれをやれば、時の政権というものは、ことごとくこの政策によって、おとなしく従ってきた経緯がある。
ここで「日本」という一人の人間は、どのように、自身の存在というもののイメージを変えて行けるのであろうか。それにはまず自分が、他の国家の人々にどのように映っているかを、客観視することが前提となる。その上で、尊敬されるための人間なる条件というものを考えてみる必要がある。「日本」は、大戦後の五十数年間で、経済的には奇跡の経済復興を果たし、世界の金持ちの仲間入りを果たした。国連における負担金もアメリカに次いで、二番目である。ところが、常任理事国の仲間入りも出来ず、世界の中で尊敬されるような人格とは認められていないのは、「日本」という国家が戦略としての日本国家のイメージ作りに失敗しているからに他ならない。

考えてみれば、カントにおける人間あるいは国家とは、批判精神を十分に持ち得た所の人間であり、国家である。もしももしも一人の人間あるいは国家の中で、明確な批判精神と判断力がなければ、それは近代的な批判精神を持つ人間でもなければ国家でもない。日本は、自身のイメージを客観的に判断し、かつどのようにすれば、そのイメージがアップするのかを常に判断する機関を持たなければならないはずだ。本来それはマスメディアが果たすべき役割である。ところが、現状ではその批判精神が十二分に機能しているとは言い難い。ともすれば、マスメディアそのものが、権力構造の一翼を担い、おもねった報道も目についてしまう。
 

3 カントからの提言

第二次大戦後、世界の指導者たちは、二回に渡る世界大戦を経験しながら、カントの精神を具現化するために、1945年6月に国際連合を立ち上げた。もちろんこの機関の第一の使命は、平和の維持、恒久平和の実現にあることは明白である。

しかしながらこの国連というものが、その後、世界の平和の維持のために、十分な機能を果たしているかと言えば、残念ながら不十分であると言わざるを得ない。原因は、世界の国家の利害が、社会体制、経済力の格差、宗教問題、などの中で複雑に絡み合ってしまっているからである。

現在のアフガニスタンの紛争ひとつにしても、その根底には、パレスチナ問題があるとも言われる。その奥には宗教問題とパレスチナ人の民族自決と貧困の問題が複雑怪奇に絡み合って、どうにもならない状況を形成してしまっている。1948年のイスラエル建国も、形式の上では、国際連合という枠組が十分に活かされたとは言えないほど性急なものであった。それが今日まで尾を引いている紛争の火種になっていることは明らかだ。

もしも民族国家がカントの言うようにひとりの人間と同じというのであれば、イスラエルが国家を持つ権利は否定できないであろう。但しパレスチナ人は、数千年の長きに渡って、その地を民族の里として、代々生活をしてきた。それもはやり民族としての権利であり、それをいかなる宗教的な教義をもってしても、簡単に否定出来る性格のものではない。本来ならば、この時にこそ、国際連合は、己の「平和維持の機能」を果たすべきであった。もしもこのようなもはや戦争状況にある世界の現実をカント本人が見たならば、どのような平和の処方箋を書くであろうか。

21世紀に生きる諸君、余は、まったくもって人類の将来にいささかの懸念ももってはいない。ただ余が考えた永遠平和の機能としての国際連合が、十分機能していない現状を見るにつけ、既に世界の国家が民族や国家のレベルを越えた新しい社会システムの段階に移っていることを痛感するばかりである。であるからもしも、この中で、永遠の平和というものを勝ち得る道があるとしたら、まずは個々人が、一旦民族や国家あるいは宗教という枠組みを取り払って、地球という宇宙に浮かんだ一個の卵のような小さき星に住む住人としての自己を自覚することである。つまり民族や国家あるいは宗教という枠を常に念頭に置いて考える習慣を、一度ご破算にしてみることから、新しい国際社会の再生は始まるのである。もしもこのまま己の小さな利害に固執し、その権利の絶対を永久に主張し続けるのであれば、そのために自身の民族や国家も含めて、いや地球そのものが破滅の道へ歩んでしまうことを知るべきであろう。したがって余は、21世紀を生きる人々に次の永遠平和のための処方箋あるいはビジョンをお送りしたいと思う。それは「地球人類」という考え方だ。これはあらゆる個人の市民生活における自由の権利をも包含する基本概念でなければならない。更に最後に遠慮なく言わせていただければ、当然の如く、宗教もまたこの「地球人類」という処方箋を含んだものに変革されなければならない。余もたった今から、「国際連合」という概念を「地球連合」と言い換えることにしよう」佐藤

 


2001.11.13

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