資料 石徹白虚空蔵菩薩坐像

 

上杉系図(岐阜県郡上郡白鳥町石徹白)

この虚空蔵菩薩坐像が確かに藤原秀衡のい命を受けて、白鳥町に運ばれてきたという重要な証拠となる古文書がある。
それが上杉系図である。資料としてここに掲載する。

原文は漢文で「白鳥町史資料二」(上杉藤九治家文書)に収録されている。

ここに掲載した読み下し文については、郷土史「郡上」10号掲載の白石博男氏の論文「源義経の逃避路と石徹白・長滝」を参考とさせて頂き、佐藤が一部手直しさせていただいたものである。

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「上杉家第八代 上杉武右衛門宗庸伝」

宗庸武右衛門。

奥羽両国の太守藤原秀衡に属す。
秀衡神祇を崇め仏法を信ず。
ある時桜井平四郎源正喜と上杉武右衛門藤原宗庸とを呼び請て曰く、

「我、聞く、北陸の霊岳白山妙理大権現(白山)は、我国随一の御神にして三世擁護の神なり。
我、常に信じもってひとつの願を起こす。彼の霊岳本地の尊蔵調鋳(ちょうしゅ)し奉らん。
思念畢(おわ)り、上下の尊体ことごとく揃えて鋳るといえども、遠国辺土にして未だその至念遂げざるなり。
予は恒に汝らの勤労を検じてその誠に感ず。汝ら彼の所に贈り奉りて我が本懐を達せざるやいなや。
もし然からば三郎忠衡を相添えるべきなり。」

正喜、宗庸謹んで君命を諾応し、旧恩に云々。

これにおいて、元歴元年甲辰年二月二十二日、奥の地を発興し奉り、東山(道)、東海(道)両道より国々をへて、
北陸越前大野郡白山の麓伊野原石徹白の地に至る。しかして上下の神殿を経営し奉りて、同二念文月朔日をもって、
はじめて上下の尊形ことごとく安置し奉る。

事終わりて旧主に復命す。

再度社地に来る時、神職の祝部正家請いて曰く、

「御辺は藤原氏の末葉。某は異姓なりといえども、先祖は共に王室輔佐の臣なり。
吾年六旬余りにて男子なく、常にこれを憂う。年来、御辺は君命を受けて神祇に奉仕賜ふ。
某の娘をもって妻とし祝部家に合禅するはいかに。」

宗庸応えて云う。

「某の君命を受けて、神祇を奉るは、これ我が所願なり」

と、云うや、政家喜びて、娘をもって、宗庸に嫁がせ祝部職を継がせしむ。

これ石徹白に居住せる上杉の始祖なり。郎党上村彦三郎、同佐之三右京二郎永く白山権現の社人なり。

元久元甲子二月八日死す。七十才勘階由と称す。

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この資料については、
岐阜県郡上郡白鳥町教育委員会生涯学課様よりご提供いただいたものでです。
ここに謹んで御礼申し上げます。

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2000.3.2 Hsato