秀衡公の思い

上村十二人衆が伝えている心

虚空蔵菩薩坐像 大師講所蔵
虚空蔵菩薩坐像 大師講所蔵



岐阜県郡上郡白鳥町石徹白(いとしろ)に白山中居神社(はくさんちゅうきょじんじゃ)という古い神社がある。この神社の社殿から二キロばかり離れた場所に観音堂があり、そこに遠く奥州平泉の地から、八百年以上も前に、奥州の覇者藤原秀衡公が、この神社に寄進したとされる虚空蔵菩薩坐像が御本尊として安置されている。

社伝によれば、この仏像は、元暦元年(1184年)、秀衡公が自らの白山信仰のために寄進したものとされ、平泉の上村という場所で造らせたものであると云う。(一説によれば、越前の白山中宮平泉寺(へいせんじ)にも寄進したとされる)しかもこの大切な仏像を守るために、秀衡公は、自らの家臣の中から、「上村十二人衆」という小武士集団を組織し、仏像と合わせて送ってきた。その後、彼らは、この神社の社人となり、秀衡公の思いを子々孫々に伝えて代々この仏像を守り続けている。この事実に接した時、私は信じられない気持ちで一杯だった。この仏像を守り続ける人々の精神には、簡単に文化とか伝統という言葉では片づけられない何ものかが宿っているように思えてならない。

翻って現代の世相を考えてみよう。来る日も来る日も殺伐としたニュースばかりが飛び込んで来る。実の親が子供を平気で虐待し、子供が親を「アンタ」と呼び捨てにする。そんな時代にあっても、この上村十二人衆の子孫たちは、秀衡公の思いを、一族の暗黙の誓いとして、過去から未来へと営々と守り続けているのである。

八百年前、奥州の平泉から遠いこの異国に仏像を運んで来た十二人衆の胸中に思いを馳せてみる。彼らの心の中は、不安よりは、大いなる使命を授かったという晴れがましさで一杯だったのではあるまいか。もちろん彼らには、名誉という以外には何の見返りもない。すると、仏像を守り抜くという使命感は、彼ら十二衆のアイデンティテイの核となっていたに相違ない。

いつの世も、時は容赦なく変転を繰り返す。秀衡公は、この仏像を安置して三年後(1187年)、奥州を楽土にするという思いを残しながら、その一生を終えてしまった。更にそれから二年後(1189年)奥州平泉は、鎌倉の源頼朝によって、あっさりと滅ぼされてしまうのだった。

かつての主君秀衡公が、この世を去り、自らの故郷も失った十二人衆であるが、彼らに悲しんでいる余裕はなかった。それからというもの、十二人衆とその子孫達は、この仏像を、盗難、焼失、打ち壊しの危機から、その都度、命を賭けて守り抜いてきたのである。最近のことで言えば、明治維新直後に吹き荒れた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐により、仏像は打ち壊される危機を迎えた。しかしその時にあっても、彼らは密かにこの仏像をこの神社から運びだし、先の観音堂と大師堂を建立し、ついに虚空蔵菩薩像を後世へと伝える大役を見事に果たしたのであった。

平泉側で、この仏像の存在を知ったのは、昭和55年(1980年)というからつい最近のことである。つまり八百年の間、送った側と送られた側の意志の疎通はなかったことになる。それでも秀衡公の思いは、上村十二衆の子孫達よって立派に受け継がれ、今日に伝えられてきたということになる。

私はこの上村十二人衆の人々の精神の中に、平泉文化というものの神髄をみる。ひいて言えば、それは日本文化の底流に脈々として流れ続けている文化の持久力(伝統の力)というものなのかも知れない。ともかく藤原秀衡公の思いは、八百年の時を越えて、今も営々として受け継がれている…。佐藤

○資料 上杉系図
この虚空蔵菩薩を運んだとされる人物(上杉武右衛門宗庸)の伝記部分。

 


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2000.3.1