小津映画を美しいと感じる精神

−感性という心の眼−


 
俗名をケンツェ・ノルブというチベットの活仏(カツブツ=いきぼとけ)が来日している。この人物「リトルブッダ」にも出演し、また重要な場面では、監督のベルトリッチにアドバイスを送ったということだ。今回の来日の目的は、自分が監督として完成された「ザカップ/夢のアンテナ」というコメディ映画の宣伝活動だというから面白い。

ケンツェ・ノルブは、僧侶名をゾンサ ル・ジャムヤン・ケンツェ・リンポチェと云う。彼は1961年、ブータンに生まれた。幼少の頃、ある高僧(19世紀の聖人ジャムヤン・ケンツェ・ ワンポ)の生まれ変わりと認定され、英国留学などをへて、チベット仏教のエリート教育を受けた人物である。最近では、中国政府から弾圧されている仏教徒を救う活動などをしており、母国ブータンでは知らぬ人の居ないほどの高僧ということだ。

何でもこの高僧、大の小津安二郎ファンだそうで、先の「リトルブッダ」で、ベルトリッチと出会ったことがきっかけとなって、映画というものに目覚めたようだ。

確か映画「リトルブッダ」にこんなシーンがあったと思う。
アメリカの一人の少年のもとに、チベットから僧侶がやってくる。彼らは、ある高僧の生まれ変わりを探していたのだ。その少年と父親は、アメリカを発って、チベットのラサへと向かう。そのラサの町を歩きながら、少年の父親が、チベットの僧侶に確かこのように聞いたと記憶する。
「無常とはどういうことか?」
すると僧侶が静に答える。
「それはね、いまこの通りを行き来している全ての人が、百年後には生きていない、ということさ」

これは死に関するチベット仏教における重要な考え方だ。
無常とは、そもそも無情ではない。無情には悲しみのようなものがあるが、無常は、ただこの世のなかの在り様を、表現しているに過ぎない。般若心経には「色即是空」という言葉が在るが、色である物質化したものは、全て消滅して消えてしまうという法則を二文字にすれば無常ということになる。

ケンツェ・ノルブは、映画を撮るに当たって、日本映画を大いに観て学んだようだ。中でも特に小津が大好きなようで、

小津さんの映画を観ていると、その余りにも美しさに、気が滅入ってしまうほどです。そんな時アメリカ映画を観て、こんなにお金を賭けてもこの程度か、と思い勇気を貰うのです」というようなことを語った。

小津さんの映画を美しいと見る時、この高僧の精神は、大体が白黒の映画で、しかも色あせ、音響にも雑音がこもるほど、古くなった小津作品の一体どこに、美しさを感じるのだろうか。

それはおそらく見た目の画面の美しさや、ドルビーの切れるような臨場感などを問題にしているのではないはずだ。人間の深い精神の真実に触れている芸術というものは、小津映画に限らず、歌舞伎でも、能でも、あるいは絵画でも、絶対に古ぼけない「真を食った美しさ」というものがあるのである。

かつて大天才ミケランジェロが、二千年も前に出来上がったギリシャ彫刻に触れた瞬間、わなわなと震えたと聞く。余りの感動に、しばらくは言葉もなかったそうだ。それはおそらくケンツェ・ノルブが小津映画に触れた時の感動に近いものがあったであろう。ミケランジェロを打ちのめしたギリシャの彫刻のように、ケンツェ・ノルブという一人の芸術家の卵を、小津作品は、容赦なく、打ちのめしたのである。

小津の映画は、映画史上の古典に位置づけられている。彼の作品はどんなに世界が変わっても色あせず、新しく在り続ける何「もの」かがある。しかし間違えてはならないのは、その「もの」とは、作品自体の見た目の美しさや麗しさなどではない。それは静に目を瞑って心の眼を開いて初めて観える類の「もの」で、単なる物質としての「物」ではなく「心」や「精神」という決して両の目には見えない「もの」なのである。

だからこそ我々は、小津の中に真実を感じ、美しさを感じ取れるほどの感性を持たねばならぬ。その感性とはまさに、この世の「真実」を見極める心の眼をそのものである。

是非この新しき芸術家の監督作品「ザカップ/夢のアンテナ」を観てみたいものだ。佐藤
 
 


義経伝説ホームへ

2001.2.21