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ショートストーリー
木枯らしの里

このストーリーを菊祭りの最中に、大切な里の宮を焼失された
「新潟のT氏」とその里人の皆さまに捧げたいと思います。佐藤


 
その日は、とても寒い夜でした。空にはキラキラと星たちが瞬いていて、栗駒山からは、木枯らしが吹き下ろしてきました。私は、長林寺の御堂の横で、ぶるぶると震えるばかりでした。体を揺すったり、こすったりしてみましたが、どうにも暖かくなりません。たまらず体を縮めて猫のように丸くなっておりましたが、我慢仕切れず、御堂の扉を、錠がかかっていないことを幸いに、ギギーとこじ開け、中に入りました。怖い気持ちもありましたが、あの時は、ただこのままでは凍え死んでしまうという思いが強かったのです。暗くて中に何があるかは分かりません。微かに何かがきらっと光ったようにも思えましたが、きっとたいそうな物が納めてあるのかもしれません。でもそんなことはどうでも良いことでした。とにかくこの寒さから逃れたい。その一心だったのです。

奥にそろそろと行くと、何かに当たった気がしました。ぞっとしました。人に触った感じがしたからです。何だろうと思ってさらに上下を触りましたが、手の感触から鎧兜だと分かりました。ほっとして、その横に座わりました。外よりはだいぶ暖かい感じです。でも少しすると、体の芯から寒さが再び襲ってきました。木枯らしは、御堂の扉を叩くように、ピュー、ピューと音を立てて吹いています。

どうしてこんなことに・・・。余りの惨めさに、涙がポトリポトリと零れました。「何故こんなことになってしまったのか」と思うと、しばらく涙が止まりませんでした。実は私は葛西家の家臣として、桃生の城下で生まれました。直属の殿は、沼倉の里に城をお持ちの沼倉飛弾守という人物でした。私は殿と共に、桃生の城を、憎き木村親子より奪還し、多くの味方をしてくれた地元の里人と共に、そこに籠城を決め込んでおりました。必ず伊達の殿が、応援してくださると信じておったのです。ところが少しばかり計算が狂いました。味方してくださると思った伊達の殿が、木村親子の背後にいた太閤秀吉の意向によって、我々の立て籠もる桃生の城に攻め入って来られたのです。青天の霹靂でした。全員で討ち死にしてみせようかとも思ったほどです。

でも流石に伊達の殿は男でした。闇夜に紛れて、城戸口を開け、逃げろと言わんばかりにしてくださったのでした。我々葛西の臣下の者と里の民を救おうとしてくださったのです。地獄に仏を見た思いでした。でも、私は考えてしまいました。名のある武士は残り、我々下級武士は逃げろと言われても納得が行きませんでした。どうして、長い間、お世話になった葛西の殿や兄ともしたう沼倉の殿を置いて、のこのこと生き恥をさらせましょう。随分迷いました。

その時、沼倉の殿が、私の方をジロリと見られて、「逃げよ。逃げて、儂の分まで生きよ。そしてどのようなことが、あったのかを、後の世に伝えよ」と言われたのでした。怖い目でした。でも、暖かかった。私はその目に畏れをなし、かしこまって城戸口を抜け出しました。外には、伊達の殿のご家来集がいて、こちらへと手招きしておりました。何か、里の噂では、伊達の殿が「立て籠もった者どもをなでぎりにした」と語り伝えられてはいるが、これは真実ではありません。その逆でした。きっと執念深き太閤秀吉に裏を取られないための方便であったのでしょう。そのような噂を自らで流して、太閤の目を眩ませ、奥州の民を守ってくださったのです・・・。

その後、我々は散り散りになり、逃げました。もう帰るあてなどはありません。既に妻子は離縁し里に帰してあります。今さらのこのこと、妻子の里に逃げ込む訳にはまいりません。逆賊となった私には残された場所は、もうどこにもなかったのです。

それから放浪が始まりました。数ヶ月、野山を巡り、夜には神社仏閣の一隅を借りて、雨露をしのいで参りました。そして自然に辿り着いたのが、懐かしい殿の城がある沼倉の里だったのです。来てみれば、既に殿の居城であった白岩の城は、焼け落ちておりました。その懐かしい白岩の城を見上げながら、三迫川の畔で、私は茫然として涙を零しました。城の周囲の山は、赤々と楓や紅葉が燃えるように揺れています。「殿、今どこにおられるのでしょう。生きておられますか?」心の中で叫びました。もちろん殿が生きているはずは万が一にもないでしょう。もう外は木枯らしが吹く季節になっていました。神の山の栗駒山を見れば、その頂には僅かに白い雪がかかっていました。白岩の城のある沼倉の里は、ひときわ景色の美しい場所で、私は数日をこの白岩の城に留まっていたのです。夜は城から南に二町ほど歩いた長林寺の御堂の下に潜り込んで眠りました。

しかし今夜の寒さは特別です。沼倉の里がこんなに冷える場所だとは思いませんでした。私はとうとう我慢が出来ずに、御堂の中に飛び出しました。「たび火をしよう」と思ったのです。思うが早いか、御堂から飛び出した私は、飢えた鼠のように周囲からたき木を拾い集めると、下に敷き詰めた枯葉に火打ち石で、火を付けました。火はあっという間に、燃え上がり、周囲を赤々と浮かび上がらせました。

すると御堂の扉の向こう方に立派な赤い鎧兜がはっきりと見えました。神々しい限りでした。私ははっとしました。沼倉の殿から、以前こんな話を聞いたことがありました。「ワシの城のそばの寺には、源義経公の鎧兜が遺っているぞ。それに弁慶のものと思われる笈もな」この鎧は、あの天下一の武将義経公のものだったんだ。としばしその美しさに見とれてしまいました。寒さが一片に吹き飛んだ気分でした。自分が、寒い寒いと言った所で、義経公は、極寒の北国道を山々を伝って、この奥州までやってきたのです。自分の境遇なんて、それと比べたら、甘っちょろいとさえ思いました。きっと私の妻は、実家でわが子を、逞しく育ててくれるでしょう。もっと強く生きなければ。そう思いました。

その時です。一層激しく吹いた風が、炎をあおって御堂の屋根に火が移ってしまったのです。御堂は茅葺きでしたので、御堂はあっという間に火に包まれました。何としたことでしょう。しかしどうしようもありませんでした。私は、何とか義経公の鎧兜を持って運びだそうとしました。堂の中に戻ると、鎧兜を持ち上げ、外に飛び出ようとしました。ところが運悪く足許にあった棒きれのようなものに、けつまずいて、前のめりに転んでしまったのです。

それから何があったのか、記憶がなくなってしまいました。本当です。気が付いた時には、白岩の城の頂にいて、じっと、真っ赤な炎が、長林寺の伽藍のすべてを焼き尽くしている恐ろしい光景を茫然と見下ろしていたのです。遠くから声が聞こえました。

「駄目だ。みんな燃えてしまう。みんな燃えてしまう。ご本尊のお薬師様、清衡公から給わった文判官殿の鎧兜、弁慶の笈。こんなことがあっていいのか・・・」それは絶唱に近い声でした。きっと御住職だったのでしょう。すべては自分のせいです。どうしたものでしょう。きっと意識がもうろうとした私は、夢中でここまで逃げてきたのです。侍だった私が、いつの間にか、逃げる事ばかりに執着するようになってしまったのでしょう。私は腰に差した匕首(あいくち)を心臓に一突きして、自害しようと、思いました。こんな大変な罪を犯して生きては行けないと、本気で思ったのです。

その時、どこからか、声が聞こえました。

「後藤甚兵衛よ。我が家臣後藤甚兵衛よ。」
それは明らかに、殿の声でした。
「殿。殿。どこにおられるのですか。殿」
四方を見渡しましたが、姿は見えません。ただ北には栗駒山の山陰が黒々と浮かんでいます。また東を見れば三迫川には、微かに星が映っています。南を見れば、地獄の業火のような炎が、長林寺を呑み込むようにして赤々と燃えさかっていました。
「甚兵衛よ。お前は生きなくてはならぬ。どんなことがあっても生きて、我が真実を伝えるのだ。」「殿、でも私はとんでもない罪を犯してしまいました。」
「いや、それでも、お前は生きねばならぬ。生きねばならぬ。それが仏の意志に従うことになる」「は、わかりませぬ。殿。わかりませね。」
「言うとおりにせよ。いつか、その意味が分かる時もあろう」
それから何も声は、聞こえなくなりました。私は覚悟を決めました。殿の仰せの通りにすることにいたしました。それから私は身繕いを整え、燃えさかる長林寺に向かって歩いて行きました。
 

それから私は放火の罪により、十年間の牢獄生活を送りました。厳しい時でしたが、私にとっては、殿が闇の中で仰せになったことを実行するための素晴らしい時となりました。あの時、桃生の城で実際にあったこと、それから沼倉の殿の日頃の言動とお人柄を、拙い文章ではありますが、「沼倉飛騨守一代記」としてまとめさせていただきました。残念ながら、殿は、逃亡の途中、「自分の首を差し出す故、家臣の者には、何らの罪もなく候故、ご赦免のほど、御願い申す。恐々謹言。」という伊達の殿宛ての短い文を書かれて、自害されたのでした。

今改めてこうして長林寺に訪れてみて、自分がしでかした罪の重さを恥じ入るばかりです。もうこの里に生まれてくる子供達は、この場所に、藤原清衡公のご寄進によって500年以上も沼倉の里にたいそう立派なお寺が建っていたことを知らずに育ってしまいます。私のせいです。そのことがたまらなく悲しいのです。で、こうして諸国を勧進を募りながら歩きまわって、何とか長林寺を再興するための資金を集めようと頑張っております。長林寺から足を伸ばして、白岩の城まで行って参りましたが、これまたそこにはただ草が生い茂っているばかりでした。つくづくと時の流れの早さを感じます。もう私を覚えている人もいないようです。僧侶の姿では、無理もありませんが・・・。

聞くところによれば、里人の間では、長林寺の焼失は、「ほいどっこ(物乞い)が、たき火をして焼いた」ということになっているそうです。そうではありません。私です。私が間違って、焼いてしまったのです。何とか罪滅ぼしがしたい。もう私も50の半ばを過ぎました。この後、何年生きて行けるか、分かりませんが、精一杯、沼倉の殿の御意志に添って、生きて参りたいと思っています。尚、殿のご遺骸は、沼倉の隣の里である市野々(いちのの)の里人によって、大切に守られていると、聞き及びましたので、これから早速参上して、ご冥福をお祈りしたいと思っています。

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あとがき。
このストーリーは栗駒山の麓にある沼倉の里に、藤原清衡公の時代から、存在したという長林寺の焼失に題材を取ったフィクションです。尚、白岩城主沼倉飛弾守は天正十九年(1586)伊達政宗との戦に敗れ、桃生郡深谷糟塚山にて自刃しています。その塚は、現一関市の市野々にあります。また長林寺は、学花山長林寺といい、往時には阿弥陀堂があったと言われる古刹です。現在沼倉字寺垣に長林寺址があります。先年、焼け跡から茶臼と石仏六体がみつかり、近くの円年寺で保管をしています。「奥州観蹟聞老誌」にはこの寺のことがこのように記されています。「同村仏体ノ背後記曰、応永二年所建也、蔵ニ義経ノ馬具一如、今纔(わずか)ニ余隻鐙一、叉有古笈一弁慶所負旧我也、納錦襴袈裟一傍有、古礎一往時多二堂塔置、八幡天神愛宕薬師観音遺跡也」。要するに、この寺には、義経公の馬具や弁慶の笈、錦の袈裟などの宝物があったということです。 

佐藤

 


2001.11.7

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