清盛の遺言状

運命は悪魔!?

 
平家物語を読んでいると、つくづくと人間の運命の無常を感じない訳にはいかない。そこで、これでもか、これでもかと、描かれているものは、並ぶようもないような栄耀栄華を手中にした人間も、一旦運命の風向きが変わってしまうや否や、その波に翻弄され、あっさりと没していく命の儚さと運命の厳しさである。

その意味で、平家物語における主役は、人間というよりは、むしろ得体の知れない運命というものかもしれない。確かにそこではどんな大政治家も英雄も、まるで大海に浮かぶ木の葉の如き惨めな存在である。一度運命という魔物ににらまれるや否や、人間はそれに逆らう術などまるでない、あるのはただ人生の舞台から引きずり下ろされ、破滅へと向かう道だけが切られている。もはや選択の余地はない。

平家物語の巻第六の「入道死去」に、平清盛の遺言というものがある。異本によってその言い回しは、弱冠異なるが、大体に置いて言いたいことは次のようなものだ。栄華を誇った平清盛は、熱にうなされ、震えながら、このように言った。

当家は、保元平治よりこのかた、度々の朝敵を平らげ、けん賞身に余り、かたじけなくもいつてんの君の御外戚として、太政大臣の位にいたり、栄華すでに子孫に遺す。今生の望みは、一事も思い置くことなし。ただ思い置く事とては、兵衛佐頼朝が首(かうべ)を見ざりつる事こそ、何よりもまた安いなけれ。我いかにもなりなん後、仏事供用をもすべからず、堂塔をも建つべからず。急ぎ討つ手を下し、頼朝が首を刎ねて、我が墓の前に掛くべし。それぞ今生後生の孝養にてあらんずるぞ

古文なので、少し取っつきにくいが、まあ、このようなことであろう。
我が平氏は、保元平治の役で功を挙げて以来、帝(みかど)に逆らうものどもをことごとく退け、特別の恩賞を賜って、名誉にも我が娘を帝の后として嫁がせ、帝の外戚になる栄誉まで得て、太政大臣の位まで拝命した。我が平氏の栄華は、すでに子々孫々に受け継がれることになるであろう。だから今この世に思い残すことなど何もない。ただひとつ残念なのは、あの朝敵源頼朝の生首を見ないで死ぬことだ。私が死した後、仏事供養にかまけていてはならぬ。供養と称して、寺など建てるはもってのほかだ。それよりなにより、急いで頼朝追討の軍を組織し、直ちに伊豆へ下れ、一時も早く頼朝の首を刎ね、我が墓にかけるのだ。それこそがこの私を供養し、孝行する道だと思え・・・

そして清盛は、事切れるのである。清盛は熱病に震えていたと言われる。実は私はそうではないと感じる。清盛が震えていたのは、実は目に見えぬ得体の知れない運命という悪魔が、清盛に取り憑き、平家一門に取り憑き、やがてすべての栄光と栄華を奪い去っていく、そのそら怖ろしき予感に震えていたのである。

清盛は、実母のたっての願いによって、宿敵義朝の遺児頼朝の命を救った。またその弟の義経もまた救った。清盛の懐の大きさが、平家という名家の滅亡を決定づけた。その意味では、清盛の人間的なすばらしさこそが、運命という悪魔につけ込まれたという見方をすることも可能だ。

それにしても、清盛の遺言にみる凄まじい執念は、どうだろう。そんなに頼朝の首が見たければ母の言うことなど無視して、幼いうちに頼朝の首を刎ねておけば良かったはずだ。明らかにその時点で、清盛は運命が自分の味方ではないかと信じて疑わなかったのだろう。

清盛を飲み込むや否や、運命という悪魔は、木曽義仲、義経に荷担し、一気に平家という木の葉の船を海の底深く引きずり込んでしまう。

さて平家物語の冒頭に「おごる者も久しからず」という有名なフレーズがあるが、平氏に勝ったはずの頼朝はどうなったか。馬から落ちて死んだ?!そんな馬鹿な、まあいい、ではその二人の息子は、・・・陰謀によって殺された?得した者は誰か?運命という悪魔か、それとも・・・。佐藤

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さて私が、こんなことを書くのは、
田舎の学友が、自らで命を絶ったという、訃報を受け取ったからである。
「人の命の無常」をつくづくと感じた。彼に何があったのか、まったく計り知れないが、驚きのあまり、供養の言葉すら浮かばない。命を絶つほどの止むに止まれぬ思いを胸に、あの心優しき友N君は逝った。この世に大事な人々を残して、旅立つ心境というものは、どんなものだったのだろう。ただただ合掌するのみ。  

  秋暮れて友死すとのeメール
 
 


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2000.10.25