天野礼子の
川から見たニッポン

北上川

         ワイルドリバー                 グレートマザー
ふる里の野生の川の北上は命育む大地の太母
(高館より「ワイルドリバー」北上川を望む)


 

序文

「川から見たニッポン北上川」を平泉景観問題のHPに掲載するにあたり、著者の天野礼子さんにお電話して特別の許可を頂いた。心より御礼を申し上げたい。尚、本文は、1992.4 「山と渓谷」誌に掲載された原稿である。タイトルは「川から見たニッポンC岩手/宮城県・北上川―流域に暮らして 文=天野礼子」である。小見出しを付けた以外原文そのままに転載させていただいた。

天野さんは、北上川を、「ワイルドリバー」と表現する。文字通り「野生の川」という意味だ。数々の開発や河川工事によって傷ついている箇所も多い。しかしそれでも手つかずの夏草や葦などが生い茂る川縁には、オシドリや白鷺たちがツガイをなして、棲息する安住の地なのである。それが最近では、至る所で、次第に護岸工事と称して、どんどんとコンクリートで固められつつある。聞けば、洪水の後の岸辺の木々に、ゴミがくっついてしまって、掃除が面倒ということも理由としてあるようだが、自然と共生して生きるためには仕方のないことだ。もしも地元の人々で手が足りないというのなら、しかるべき自然保護団体にボランティアを御願いすれば、北上川の清掃隊だって組織してくれるはずだ。それほど北上川は魅力のある川なのである。

多くの人は、大地からばかり川を見る。一度、川から地表を覗いて見るといい。自分の視点でばかり見ていては、川という自然の多様な側面は見えるはずもない。少し角度を変えるだけで他人とばかり見えていた川がまるで母の如き面持ちで眼前に迫ってくる。人にとって川は、遠い記憶にある母の胎内そのものかもしれぬ。確かにゆったりとした気分で舟縁から大地を見ていると、物言わぬ川が、何かをそっと語りかけてきて、小さな人間の自分が川と一体になる気持がする。川の息づかいが、心地よく自分の全身と共鳴しているのが分かる。

古くから人は川と共に生きてきた。まさに川は数数え切れぬ生き物を育む太母(レートマザー)なのである。始め生き物は海で生まれた。彼らは川を遡り、川縁をはい上がり、やがて大地いっぱいに拡がった。人もまたその中から生まれたひとつの生き物に過ぎぬ。人は言うならばみんな川の子供のようなものだ。しかし今、人はエゴをむき出しにして、自然を破壊し母なる川も自らに従わせようとやっきになっている。もう一度人と川の関わりをその根本から問い直すべき時がきたのだ。もしかしたら各地にある河童の伝説は、人の中にある母なる川への追慕が生んだ幻想なのかもしれないとさえ思う。

母なる北上川の岸辺には、都会を流れる川のように民家や工場など建っていない。それはこの川が、いつでも上流から川の栄養素を大地にもたらすように存在する川だったからだ。今でも見渡す限り稲穂の海原が、遙かな山裾まで拡がっている。日本中でもこの雄大な北上川の流れは稀有な存在だ。北上川を「海の香りのする川」と表する人に逢った。その人は、長くこの北上川で釣りをするのを無上の喜びとする釣り人で、かなりの上流で海から上がってきたと思われるスズキを釣ったことを自慢しておられた。何という川だろう。そんな川から今、我々の世代は、様々な美名を冠した乱開発によって、「野生」を奪おうとしているのだ。

もう一度、原点に返って、川とは何だったのかと問い直して見るべきかも知れない。「野生の川−北上川」なんと素敵な響きだろう。この「野生の川」を、このまま野生でいて貰うために、ただの水の流れる水路にしないために、我々はもう一度「この掛け替えのない川」に思いを馳せてみるべきではないだろうか。(佐藤弘弥)

数知れぬ鳥たち憩ふ北上の岸辺壊さぬ人でありたき



 

はじめに

奥羽山脈と北上山地に並行して走っているのが流程二四九キロの北上川だ。
山脈に対して縦に走っているという点では日本唯一の川となっている。
この川は江戸時代から大切な“舟運”のための路となり、米を江戸へ送っていた。
しかし、舟運を優先させれば、水害予防は二の次となる。
時代の要請によって川の利用の仕方が変わるが、その象徴のひとつがこの川だ。
舟運がすたれ、農業が追いやられ、重工業中心となったとき、川は変わる。
そんな川の表情を見ながら、この川は三人の偉大な文学者も生んでいる。

ある河川工学者の話

「実はこの川は、河川工学者にとってはとても興味深い川なんだ。いろいろな意味でね。
まず、普通、川といえば山脈に対して垂直にあるでしょう。ところがこの川は、奥羽山脈と北上山地に並行して走っている。そして、このふたつの山並みに対して垂直にある各支流から水を集めているんだ。それらの支流は、それぞれ大きな平野を抱えている。だから、日本の多くの川がそうであるように、『夏になると、川に水がない』状態になる。これは、川を農業水利に利用してきたわが国の特徴だよね。でもこの川の本流はちがう。夏も満々とそれらの支流から集めた水を湛えてるんだ。

山脈に対して縦に走っているという意味では、わが国唯一の川。そして、平野を抱えていないという点では、例のあの紀伊半島の、なんて言ったっけ、そうそう“瀞峡(とろきょう)”。あの切り立った峡谷を流れる熊野川と、この二本くらいだろう。

それから次には日本は農耕国家となって以来二千数百年、農耕の便利のために川べりに住み、洪水も多いが肥沃な河口部にも住んできたよね。そのために“水害防御”は、わが国の命題となってきたんだが、そこでこんな問題がある。

“舟運という営業に象徴される、文化の運び手としての役割もかつては川にあった。舟運のためには、川の平常時の水深を深くしておく必要がある。しかしわが国の川は平常時だと流量があまりない。そこで、舟を通す水深確保のためには、流速をできるだけ遅くして、水をとどめておくことが必要となる。ところが、水害防御の観点から見ると、できる限り水位は低く、流れはさまたげないで、水は早く流下させるに越したことはない。

“舟運”のために平常時の流速を遅くさせる工夫は、洪水時には流れをわるくするものと働き、反対に、洪水の疎通をよくする方法は、平常時の水深を浅くしてしまう。双方の要求は相容れないというわけだ。

そこで、どちらを優先するかということになるが、この北上川では、伊達藩と南部藩が江戸へ米を廻すために、舟運のための航路維持を優先させたんだ。

日本の他の河川では、たとえば木曽三川などでは、江戸期に“治水”のために三川分流を試みている。ところがこの北上川では同じ江戸期に“舟運”のために“分流”どころか、北上川、迫川、江合川の“合流”をやっている。江戸時代の河川工法では、舟運路を確保する技術はあったが“水害防御”と“舟運”という言葉の持つ根本的な矛盾を解決するまでの力はなかった。

それに、舟運路の確保は、藩の必要欠くべからざるものであり、また日々の生活に必要であるが、水害になるような洪水は、年に一度か二度。うまくすれば何年も来ないこともある。だから、まず“舟運”優先、その後で可能な限り水害防御を行なうという妥協策を取ったんだね。その背後には“お上”の、「藩利優先、水害で泣くのはしょせん“民”」なんて考え方もあったかもしれない。

でもね。もともと日本人には、ある程度“洪水”が来ることを前提として、いかにそれを“水害”にしないかを考えるしかないという現実的な思想がしたたかにあるんだよ。だから、住まい方や土地の利用の仕方に工夫してきて、低地では“輪中(わじゅう)”などのように集落全体を堤防で囲ってしまう治水法、舟を用意し“水屋(みずや)”と称する避難所をあらかじめ高い所に造っておく、また水川を洪水時には遊水池とする、あるいは大洪水では、被害を最小限にするために、積極的に堤防を切ることさえしてきたんだ。

現代の河川工学でも、基本的には水害は防御しても必ず起こってしまう、技術的水準が上がって、それが何十年、あるいは何百年に一回となっても、まったく防御しきれるものではないという考えが根底にはある。建設省なんかもそう考えてるんだけど、あんまり公に言うと、低地に住んでいる国民から“おしかり”を受けるから、大声では言わないんだ。

ところで、さっきも話したように“水害防御”を犠牲にして“舟運”を立てたという意味では、この川はわが国で最も顕著な例といえる。

三川の合流によって“舟運”は確かに便利になったが、それ以降、仙北平野では水害が激化することになったんだ。そのため、大正期になって、新北上川の放水路を開削して“分離”させ、洪水のほぼ全量を放水路によって追波湾へ追いやるようにしたけれど、まだ地形的な宿願である狐禅寺上流あたりの湛水域問題が解決できない。そこで、昭和八年に、アメリカのTVA(テネシー川流域開発公社)思想をまねて、北上川だから“KVA”だなんて言って、河川工学の総智が結集した。そういう意味ではなかなか『考えさせる川』なんだよ、この川は。

昭和四十七年から着手している『一関(?)遊水地計画』なんてのは二百年事業だから、頭をフレキシブルにして事業を行なってゆくことを心しておかないと、事業計画が新しい科学についていかないなんてことが、今後起こってこないとも言えない。近代に入ってからこれまでの言ってみれば『人間の御都合優先一辺倒』から、『多自然型河川工法』なんてのに発想転換されるようになってきた風潮もあるしね。

天野さんにこんなことをあんまり吹き込むと、建設省サンに、にらまれるかな」
と笑うのは、某河川工学者。
 

工業化に伴うニッポンの川の変貌

なるほど、時代時代の要請によって川の利用の仕方が変わる。その象徴がこの北上川だと言うわけだが、これはわがニッポンが考えるべき問題でもあるだろう。

わが日本人は稲作の伝来以来、川の側に住まい、川と向き合い、主に水田などに川を利用してきた。反面、洪水などとは切っても切れない縁があり、ずいぶん川に泣かされてもきた。かつては、人が川を利用する大きな用途のひとつに“舟運”もあった。

そころが、大きくは第二次世界大戦を機に、モータリゼーションが急速に発達し、川における“舟運”が急速にすたれた。

戦争はまた、戦火により破壊された河口部の都市を復興させるために、治水のため何百年と木を伐ることの禁じられていた川の源流部の木も伐らせた。すると洪水が頻発した。しかし国民は洪水の要因のひとつが、実は山が裸になっていたためと気づかず、ただ政府に強い鉄の橋とコンクリートの堤防を要求した。川の管理者である建設省は、ダムも洪水防止に役立つと唱え、電力と都市の水道用水、そして重工業の川水確保などの目的の下に、多くの河川に次々とダムを造り続けた。

この大きなダムや鉄橋 の建設、そして堤防強化は、わが国の建設業界の振興を助け、内需拡大にも大いに役立った。このとき大きく、わが国は農業国から工業国へと変身した。

ところが一方、“舟運”という言葉が消え、人が集わなくなった川で、次々とおかしなことが起こり始めた。まず川の水の色が悪くなり、やがて、くさい臭いを発するようになり、やがて魚が、そして魚を食べる鳥たちが、次々と水に浮いたのだ。そして、ついには人が……。

重化学工業による“水の汚染”。水俣病をはじめとする“公害”という言葉がわが国に生まれたのが、このときであった。この日本人が初めて経験した環境破壊時代、川においてはその貌をまったく変えてしまう建設工事、そして水の汚染が同時に進行した。日本人は、水の次は魚が、魚の次は人が危ないことを、学んだはずだった。

しかし、ニッポンにとって実に不幸なことであるが、この初めて経験した大きな環境破壊が減少したのは、実は二度にわたるオイルショックがもっとも大きな原因だった。学んだように見えた日本人だが、実は心から反省したのではないのが今、分かる。それは近年、再び巨大建設プロジェクトによる内需拡大が叫ばれ、『リゾート法』などという新たに国土を開発するための法律が成立してしまっている現実に、象徴されるだろう。

江戸時代の河川工法では、北上川の持つ“舟運”と“治水”の矛盾が解決できなかった。大正期に新北上川の開削が考えられたときには、もう川ににおける“舟運”は衰退期に入っていた。

そのため“治水”とは、人の命と農業を守ることであった。その思想は昭和期の“KVA”とやらにも伝承されただろう。北上川に多くの洪水調節ダムを設け、河道改修と組み合わせて“治水”を行なう。そしてダムによって発電、また潅漑用水を生み出すなど、川を総合的に開発するという考え方。

しかしこの近代工法でも、やはり、矛盾は生じた。たとえば『多目的ダム』などという言葉があるが、今のニッポンでは、現実には“治水”と“利水”の異なる目的を同時にひとつのダムに背負わせるなんてことは不可能だ。一例を示すと梅雨になって大雨が降る前にダムを放水しておかないと“治水“上危険だからといって、夏の前に放水し過ぎると、水田の“利水”や、近年では都市のオフィスの冷房のための“利水”の、かんじんなときにダムに水がないということも起こる。

そしてもっと問題なのは、近年の河川工学が“建設族議員”などの言葉を生んでしまっている風潮。すなわち、河川工学者は川で実験したいために、建設族議員は金を生みたいために、不必要な河川工事までしてはいないかという疑問である。先の夏の“ダム涸れ”に関しては近年、ダムを造り続けたい建設省のマスコミ誘導もあるのではないかとの声もある。
 

新北上川でカヤを刈る老人から聞いた話

新北上川でカヤ(正称名称はアシ。ヨシともいう)を刈ってきた老人の話を聞いた。
「今カヤが生えているところにあった二八〇町歩の田んぼが買収されて、こっちに移ってきたんだ。元の田んぼにカヤが群生してきたんで、まず、海苔簀(のりず)を作って、気仙沼の方へ卸すようになった。それから、茅葺(かやぶ)きの屋根にも使われたり、葦簀(よしず)を造るようになったり、それまでは農業だけだったが、けっこうな副業になってきた。洪水かね。このあたりに住んでると毎度のことだったから、特に困ったってことはこの七八歳になるまでなかったよ。雨が降れば、ああもうすぐ水が出るなってことは、ここらに住んでりゃわかるんだからね。馬渡し船で、馬を対岸の山の方へ運んだり、家族ぐるみで避難させてもらったり。そのために普段から嫁の交換なんかをして、仲良くしてたんだ。ほうかね、他の川では対岸の堤防が切れたら、喜んだっていうのかね。ここはちがうな。こっちは危ないのは当然、だからあっちへ逃げるてなもんだ。川とのつきあい方は農民が一番よく知ってるよ。また、洪水は田んぼを洗って稲を倒してゆくかわりに、めいわく料として、養分を置いてったんだよ。だから買収のときも、向こうの米山町とか登山町なんかの“米どころ”を守るんだからと言われたから、ハイハイと立ち退いたんだな。俺のオヤジはそう言ってた」

「うちのこのジイチャンはもう引退していて、今は俺が六月から十月まではシジミ、秋は稲刈り、冬は葦簀作りと、貧乏暇なしよ。

近ごろは何だってね。俺たちはカヤと呼んでいるこのヨシ、本当はアシというそうだが、これが水を浄化してきたんだってことが注目されているらしいね。川の汚れの元になるリンやチッソが、このカヤの養分なんだって。

それに、シジミも水をきれいにするんだってね。知らなかったな。それで、ここ数十年急に汚れちまった川を、少しでもきれいにするために、このカヤの浄化能力を生かすっていうじゃないの。なぁジイチャン、永く生きてりゃいろんなことがわかるんだな。俺も長生きするべ。またいろいろ変わるかもしんねいしな。」

『豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国』。この美しい響きの呼び名を教わった年代は、米の一粒は八十八回人の手がかかって作られた貴重なもの、米粒を粗末に扱うと罰が当たると聞かされて育ったものだ。

しかし今、どうだろう。あれほど貴重といわれた米が減田減田そして、農耕民族である誇りを失ってアメリカからも米を買う時代になってしまっている。

それには農耕国家から工業国家への変貌という問題だけではなくて、人口の減少も要因としてあるだろうが、こんな世の中になると、果たして数十年前の科学者たちは、本当に予想できたか、できなかったのではないだろうか。今回の北上川を巡る旅では、こんなことが気になった。

宮沢賢治の教え子である照井謹二郎さんは、賢治の心を受け継いで、亡くなった奥様と共に、賢治の童話を元にした児童劇を四六年間、一五九回も上演指導してこられた方であるが、この方が語ってくれた賢治とは、農民の中で汗をしながら、夢の中に遊ぶことを忘れなかった男(ひと)。正にこの北上川の流域にこそ生まれえた文学者であったと思われる。賢治が短いが充実した教師生活を送ったのも農学校であり、その死の当日も玄関で座って指導したのは農家の蒔肥であった。

確かに「賢治の前に賢治なく、また賢治の後にも賢治はいない」。が、世にもまれなる文学者が同時代に三人も(宮沢賢治、石川啄木、柳田国男)この北上川を舞台に活躍した背景は、農耕文化ではなかっただろうか。柳田国男が書いた『遠野物語』は、猿ガ石川流域に暮らす遠野の人々の昔語り。農耕民族になる前に、この日本列島に暮していた“森の人”たちの伝承である。

そんな賢治や国男の足跡と共に、農耕そのものも現代のわがニッポンは、たかだか数十年の間にすっかり昔がたりにしてしまっている。まるで、農耕民族であったことは他の国のことであったとでも言いたけに。そして、かつて農耕の利水のために川に集ったことも、忘れ果てようとしているのである。

近年、地球環境が云々されるが、地球はちっとも危なくなんかない。危ないのは人類という動物である。多くの野生生物や自然をたかだかここ数十年の間に滅ぼし尽くしてしまった、この愚かなる生物が次は滅ぶのだ。

わがニッポンは農耕伝播以来、国土の約33パーセントを開拓して、農耕民族として生きてきている。言ってみれば、わがニッポンの自然とは、33パーセントが人間が造り出した“二次自然”とでも言うべき物であるかもしれない。

しかし、二次自然であり、一次自然であり、いずれにしても自然とは、人類だけではなくすべての生物にとってかけがえのないものであるだろう。地球環境が云々されるのは、一度足元の自然を見直す機会を持つと言うことなのではないだろうか。川もまたしかりである。了
 
 

 


2002.8.25
 

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