西行が死に行く義仲に捧げた歌四首

ー西行にとって武者の世とは何であったかー


 


西行の聞書集の中に、「地獄絵を見て」という一連の歌が並んでいる。どこまでが「地獄絵を見て」なのかは、不明だが、この続きに死んでゆく木曾義仲に捧げたと見られる歌が四首並んでいる。
 

1.歌
朝日にやむすぶ氷の苦はとけむ六つの輪を聞くあかつきの空
(歌意:朝日が昇ってきた。これで氷結した氷のような苦しみも氷解してゆくのだろうか。暁の空に錫杖の音がどこからともなく聞こえて来る。)

2.詞書(ことばがき)
世のなかに武者おこりて、西東北南いくさならぬところなし。うちつづき人の死ぬる数、きくおびただし、まこととも覚えぬ程なり。こは何事のあらそひぞや。あはれなることのさまかなとおぼえて、
(現代語訳:世に武者というものが現れてから、西に東に北に南に戦がないという土地はない。戦によって死んだ人の数は夥しく、とても現実とも思われぬほどだ。いったいこれは何のための争い事なのだろう。悲しいあり様と思いながら、)


死出の山越ゆるたえまはあらじかしなくなるひとのかずつづきつつ
(歌意:戦によって死出の山路を越えて行く人がなくなるということはないのであろうか。今日もまたそこかしこで戦で人が死んだという話を聞くにつけて)

3.詞書
武者のかぎり群れて死出の山こゆらむ。山だちと申すおそれはあらじかしと。この世ならば頼もしくもや。宇治のいくさかとよ。馬いかだとかやわたりたりけりと聞こえしこと思ひいでられ
(現代語訳:武者たちが限りなく群れて死出の山を越えて行くようだ。(木曾義仲は)山賊かと言う声もあるがそれはなかろう。一緒に行くのであるからこの世であるならば、実に頼もしい光景ではあるのだが・・・。むかし頼政殿も宇治川を、馬を筏のように連ねて激流の中を渡ったと聞いたことが思い出される・・・)


しずむなる死出の山がわみなぎりて馬筏もやかなわざるらむ
(歌意:人が沈んでゆく。川が死出の山となって濁流に武者たちが次々と呑まれてゆくのだよ。馬筏もこの流れには敵わないと見えて)

4.詞書
木曾と申す武者、死に侍りけりな
(現代語訳:木曾義仲という武者が死なれたそうだ)


木曾人は海のいかりをしずめかねて死出の山にも入りにけるかな
(歌意:木曾に育った武者はついに大海の怒りを静めることができず、死出の山路を越えることになったのだろうか)

この四つの歌に西行の武者の世に対する感慨がしみじみと封印されているのを感じる。第一首目は、この四首全体の露払いあるいは卒塔婆の役割を果たしている歌であろう。真新しい白木に「朝日将軍木曽義仲死す享年三一歳云々」と立てられているイメージ見える。西行は、木曽義仲の敗死を聞いた時、その死を追悼したいという思いがこみ上げてきたのに違いない。第一首から、私はある種の救いのようなものを感じとった。それは「朝日」、「苦はとけて」、「六つの輪を聞く」、「あけぼのの空」という言葉で紡がれた鎮魂のイメージからである。西行の心には、「あんたさんもよう生きてよう死なれましたなあ。でもこれで心やすく過ごせますなあ」といった癒しの言葉が自然とわき上がっていたのかもしれない。

かつて自らも武者であった西行は、武者というものの宿命として、静かな心を得るのは、死の後にしか来ないことを看過していたに違いない。生あるものが、死によってしか得られない「平穏」というものがある。それは武者にとっての絶対矛盾(あるいは不条理)であり、「業」というものの真実の姿ではなかろうか。

周知のように西行は、武門の名家に生まれた。祖の藤原秀郷は、あの平将門を破った伝説的な武者である。彼自身、院を守る北面の武士として、エリート街道をまっしぐらに歩いていたが、突如として、出家をした。原因はやんごとなき女性との恋が噂される。そして彼は、妻と幼い女児をも捨て、仏の道に飛び込んだ。23才の若さであった。北面の武士には、厳格な作法があり、頼朝は、鎌倉を訪れた西行に、その作法を熱心に問うたこともある。しかし西行は一切答えなかった。西行は、仏道修行者として、戦というものを強く嫌悪し距離を置きながら、それでも武者たちが、己の覇を競い、日々に命を落として行く様を深い慈悲の心をもって見つめていた。

明らかにここに上げた四首は、寿永三年(1184)、初陣を飾る源義経に敗れて、敗死を遂げる木曾義仲に捧げられたものと思われる。義経と入れ替わるように逝った義仲の死を悼む西行の眼は、「海」という大きなものに翻弄される人間義仲に限りない「あわれ」を感じているかのようだ。西行の眼はどこまでも非業の死を遂げた武士義仲に暖かい眼を向ける。この視点はこの500年後、俳人松尾芭蕉に受け継がれてゆく・・・。



2005.6.24 佐藤弘弥

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