原爆投下の記憶

原爆投下一時間後の巨大なきのこ雲
原爆炸裂一時間後のキノコ雲
(1945年8月6日米軍機撮影)


人間には、忘れてはならない記憶というものがある。たとえそれがどんなに忘れ去ってしまいたいたぐい の記憶であっても…。

52年前の今日(8月6日)、8時15分、晴れ上がった広島の空を閃光(せんこう)が走った。 そして次の瞬間、地獄のような光景が出現した。ある人は、3千度(ちなみに鉄が溶けるのが1536度である)もの熱に焼かれて消滅し、助かった人も、焼け ただれた肉体を引きずりながら、水を求めてさまよった。子供も大人も、老人も、妊婦も、原子爆弾という悪魔は、情け容赦なく、焼き尽くし、殺し尽くした。 その日だけで死んだ人の数は十数万にのぼるといわれている。いまだにその数は、増え続け、特定されることはない。それから52年を経た今も、原爆慰霊碑に は、次々と原爆で犠牲になった人々の名前が、刻まれ続けているのである。その数は、その年だけで14万人、現在では、ゆうに20万人を超えている。

日米戦における市民を巻き込んだアメリカ軍による大虐殺の歴史


年月
場所
即日の死亡者数
総死亡者数
1945年3月 東京大空襲
約80,000人
105,000人
1945年3月 沖縄戦
200,000人
1945年8月 広島原爆
140,000人
200,000人
1945年8月 長崎原爆
73,000人
115,000人

 *注…1944年秋より始まった東京空襲の死亡者数は14 万人である。

また今もって、原爆の後遺症に苦しむ多くの人々がいる。その時は、軽いやけどのように思えた人 も、体に蓄積された放射能によって白血病などの病に一生を台無しにされてしまった。さらには被爆二世と言われる世代もいる。これは原爆を浴びた人の生んだ 子供たちに何らかの肉体的な障害や病魔が突然襲ってしまうことだ。彼らは何も知らずに、生まれながらに原爆の黒い影を背負って生きているのである。

どう控えめにみても、原爆投下という行為は、アメリカ政府による大量虐殺(ジュノサイ ド)である。人間には、やってはならない禁じ手というものがある。そ の禁じ手をアメリカの政府はあえて強硬した。その裏に何が合ったのかはしらない。あえて裏読みをすれば、作った以上その威力を試してみたい、という感情が わいたというしかない。悪意に満ちた好奇心が、人間の道徳心を超えた瞬間、広島の空の下で悲劇は起こったのだ。

アメリカ側の大義名分は、日本本土に、アメリカ軍が上陸した場合、被害が甚大になるとの判断 だった。しかし、そうだとしたら、まず東京湾の沖合に原爆を落とし、それでも無条件で降伏しなかった場合、「次は東京の中心部に落とすぞ」という形で、敵 に判断の猶予を与えるべきであった。しかもこの時期、すでにドイツも降伏し、アメリカ側の勝利は100%堅かった。それなのになぜ、一般市民をターゲット にした虐殺が行われなければならなかったのか。

アメリカの思惑通り、日本は無条件降伏をした。終戦後、東京裁判(極東軍事裁判)において、日 本軍の残虐行為が裁かれ、勝者アメリカの原爆投下という蛮行には何らの、とがめもなかった。しかし人 間として、自己のなした行為については、たとえ勝者であっても、責任を取らされる日が必ず来る、と私は信じる。

遠い未来において、世界がひとつの共同体に進化を遂げた時、我々の子孫たちは、20世紀歴史を どのように学ぶのであろうか。それはきっとこのようなものではないだろうか。

第二次世界大戦において、三つの大虐殺 (ジュノサイド)があった。それはドイツ人の行ったユダヤ人の大量虐殺と、日本人の南京大虐殺と、アメリカ人の広島・長崎に対する原爆投下である。しかも この三大虐殺のポイントは、市民に向けられた無差別大量殺戮という点で、人類の歴史のなかでも極めて恥ずべき悪意に満ちた行為である」 と…。

広島や長崎で起こったことを考えると、私は、胸が詰まって、月並みな言い方しか言えなくなる。 しかし私はあえてこのように言おう。

我々は、この原爆投下の悲劇を、遠い日 の記憶にして風化させてはならない。これは単に日本人の身の上に起きた悲劇ではない。人類そのものに向けられた蛮行なのだ。二度とこのような悲劇を起こさ ないためにも、この事実を、我々は、勇気と信念を持って、語り継いでいかなければならない」と。佐藤弘弥記


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思いつきエッセイ

1997.8.6