ある大芸術家の死
ー木下順二氏の最期の身の処し方についてー
「寡黙な先生らしいご最後・・・」と、ある人
の死の報道に感服した。それは、劇作家木下順二氏が、一ヶ月前の06年10月30日にお亡くなりになっていたということを、本日
11月30日に知った時だった。一ヶ月の間、遺族は故人の遺志を守り、武田信玄のようにその死を公表しなかった。もちろん葬儀も告別式もない。現代最高の
演劇人らしい身の処し方というべきだろうか。享年は92歳だった。
後には、日本演劇界の至宝というべき膨大な作品群が遺された。民話に取材した「夕鶴」や平家物語を前衛劇にした最
高傑作「子午線の祭り」等々。それらは冬の夜を彩るシリウスのように青い光を放って我々の頭上で燦然と輝いている。
木下順二氏(1914ー2006)は、大正3年、東京で生まれた。11歳で父親の故郷熊本に移り、高校までをその
地で過ごした。東大英文科に進学。そこでシェイクスピアに出会った。この時の演劇との出会いがきっかけとなり、以後戯曲三昧の道を歩むことになった。
妙な言い方になるが、私は氏の書く作品に、土の臭いがあると思ってきた。何故、「土」の臭いがするのか、と言え
ば、それはおそらく、氏の寡黙で飾らない性分に根ざしているのではないかと思う。
氏はどこか古武士の風情があった。考えてみると、芝居という自己の世界を離れてマスコミに登場し、発言したりする
ことがほとんどなかった稀な知識人だった。又、氏は馬という動物をこよなく愛し、馬の文化史的な研究も含め、現代風の言葉で言えば「馬オタク」であった。
今の日本では、専門外のことであるにもかかわらずコメンテーターなどの名の下に、さも知っているようにして、マス
コミに過度に登場する胡散臭いエセ知識人が多い。その原因は、何事にもマニュアル本化し、昨日まで何も知らなかった人間が、あたかも専門家のような顔をし
ていられる風潮があるからだ。
木下順二氏は、自己の歴史観を、舞台で語られるセリフの上に表現し、それ以外ほとんど貝のようにくちをつぐむよう
な寡黙な作家だ。
日本には古来より、「土に還る」という死生観がある。これは禅の無の思想のもたらされる遙か以前からある魂の本能
のような感覚だ。土の本質は寡黙である。いったん土に戻ったら、土はなにも語らない。語らないことこそ、「土」本来の言葉である。
氏の業績をシンプルに再構成してみる。氏には同時代の歴史に対する見解を披瀝した「オットーと呼ばれる日本人」や
戦後の東京裁判を題材にした「審判」のような作品がある。そして日本人の心の奥にある民話的叙情を作品にした「夕鶴」や「彦市ばなし」のような作品があ
る。またさらに平家物語を翻案した「子午線の祭り」のような人間の運命という大きな題材を哲学的に扱う作品がある。
この「木下順二の世界」とでも言うべき、多重構造の劇的世界は、年を経るごとにマンダラ宇宙のような雄大な規模に
進化してきた。特に「子午線の祭り」は、人の言葉で奏でられる交響曲のようなスケールがある。しかし多くの人は、氏の一面の世界しか、知らず、また氏はそ
れを説明することもせず、「木下順二の世界」の評価は後世の人々の手に委ねられたのである。
稀代の名女優山本安英(1906ー1993)のつう役の名演技で知られる「夕鶴」(1949年初演以後山本安英は
千回以上の上演を行った)は、日本昔話で著名な「鶴の恩返し」を翻案したもので、鶴が、女性となって恩人に恩返しに来るというシンプルな物語だ。考えてみ
れば、「恩返し」という言葉は、今現在死語に近い。「恩返し」という言葉は、美しい言葉だ。しかしこのシンプルな言葉が忘れ去られていることに、日本人の
精神の闇が病みとして拡がってしまっているのではないかと感じる。
「子午線の祭り」(1979年初演演出宇野重吉他)は、氏の最高傑作との評価が定着している作品だが、私は明治以
降のあらゆる戯曲の中でも最高の作品のひとつであると思う。平家物語をベースにした壮大な構想力はどこから来たものか。このドラマが出来上がる背景につい
て、初演で弁慶役を演じた劇団民芸の岩下浩氏に聞いたことがある。確か、木下順二氏は、岩波新書の「平家物語」(石母田正著1957年刊)を読んで、いた
く感動し、平家物語の翻案に取りかかったそうである。
名著というものは人の心を揺さぶるものである。石母田氏は「平家物語ほど運命という問題を取り上げた古典も少ない
だろう」と冒頭の第一章「運命について」で書き始める。おそらく木下氏も、この冒頭の一行に心を揺さぶられて平家物語の虜になってしまったのだろう。
この作品では、言葉(セリフ)が、美しい正確な日本語で音楽のように流れる。ドラマは平家滅亡の壇ノ浦の場面であ
る。筋は「群読」を交えて運命の糸を紐解くように展開する。一転クライマックスに差し掛かると、観客を圧倒するように、源平の敵味方オールキャストが登場
し「群読」にて、機銃掃射のように言葉が放たれる。大寺院で奉納される「声明」にも似ているという人もいるが、それとも違う。ともかく、「子午線の祭り」
には、ギリシャ劇やシェイクスピア劇を綜合し日本的に展開したような、それまでの演劇にはない革新があった。その基礎となる文化的背景には、作家の言葉
(母国語としての日本語)というものへの、もっと有り体に言えば美しい日本語への信念にも似た愛着があったのかもしれない。
氏はそのような激しいまでの言葉に対する思いを持ちながら、自作を過度に語ることはもちろん、その他の文明評論な
どは、ほとんどなさらなかった。また名誉である芸術院への入会が内定していた時には、「一介の物書きでいたい」と一言述べて断ったこともあると聞く。ここ
が木下順二氏の木下順二たる由縁である。
ひとり閑かに死を味わいたい・・・。そんな声がどこからか聞こえてきそうな気がする。与えられた木下順二という生
を生き抜き、作品以外の一切を黙して語らずに去った日本の稀有な芸術家の魂に心からの敬意と哀悼の意を表したい。きっと木下順二氏は、平知盛よろしく「見
るべきほどのことは見つ」との心境で、迎えにきた愛馬にまたがり天に昇ったことであろう。合掌
木下順二氏の御霊に一首
街眠る凍てつく夜のシリウスの蒼き光に氏
の影を観む
2006.11.30 佐藤弘弥
義経伝説
思いつきエッセイ