吾妻鏡の倹存奢失を考える

-もっともらしき言葉を疑え-

 
吾妻鏡の文治5年8月21日の条の最後にこんな言葉がある。
「倹存奢失」(けんそんしゃしつ)。何故このような言葉を吾妻鏡の作者がこの箇所に敢えて置いたのだろう。その意味について少し考えてみたい。

原文はこのようである。
「廿一日戊申。甚雨暴風。追泰衡。令向磐井郡平泉給。(中略)泰衡過平泉館。猶逃亡。縡急而雖融自宅門前。不能暫時逗留。讒遣郎従許件館内。高屋宝蔵等縦火。杏梁柱柱之構。失三代之旧跡。麗金昆玉之貯。為一時之薪灰。倹存奢失。誠以可慎者哉」

現代訳をすればこんなことになる。
「文治5年8月21日、雨風が甚だしかった。泰衡を追いながら、奥州磐井郡の平泉に軍を向かわせた。(中略)泰衡は、平泉の館を過ぎてなお逃亡した。泰衡は急いで自宅の前に差し掛かったのだが、しばらく逗留することも出来ずに、部下を遣わして、自らの館内の高屋、宝蔵などに火を放たせたのであった。その為に、高き梁(はり)や柱という柱の構え、三代続いた旧跡は失われ、麗しき金昆玉などの貯えは、たちまちのうちに灰燼と化してしまったのである。(だからこそ)倹存奢失というのである。誠に慎むべきことではないか。」

さて考えてみるとこの「倹存奢失」とは鎌倉の武者に向かって、奥州の滅びについて、これを教訓とせよ、との明確な目的をもってここに置いた言葉のようである。もっとずばりと言えば、「倹約に務めよ、そうすれば奥州のように滅びることなく、存在することができる。奥州の哀れな最後を見よ。あんなに贅沢の限りにを尽くしたからこそすべては失われ、滅びたのである」という倹約の勧めである。

「倹存奢失」という熟語に普遍的な意味があるだろうか。何かアリさんとキリギリスの話のようでもあり、本当らしく聞こえないでもない。確かに奥州藤原氏が三代百年に渡り築いて来たものは、泰衡の自滅の放火によって、あっという間に灰になってしまった。黄金の産出という絶対的な富を武器として、僅か百年の時をもって出来上がった黄金の国奥州平泉であった。しかし元を辿れば、この金の産出そのものが悲劇の始まりだったのである。もしも父秀衡死後の奥州を引き継いだ四代目の泰衡が倹約にこれ務めいたところで、助かったはずはない。、鎌倉の頼朝からすれば、奥州に眠っている富と領地領民こそが、喉から手が出るほど欲しかっただけである。幸い政治家として睨みを利かせていた秀衡が亡くなり、軍事の天才弟義経を陰謀で葬り去らせたのだから、もう怖いものはない。みんな貰うよ、位の思いでやってきた盗人の頼朝なのである。

これは歴史の中でもよくあることだが、富に対する人間の執着そのもので巻き起こる戦だったのである。時代を今に置き換えるならば、石油という絶対的な燃料を富みに換えて、たちまちのうちに金持ちになった中東の産油国に似ていないこともない。しかし絶対的な富というものの周辺には、その富を自分のものにしようとする野望家が常に現れて、あれやこれやと策をもってこれを奪い取ろうとする。現在のイラク情勢を見ていると、何かかつての奥州と鎌倉の対峙のようでもある。

そのようなことをつらつらと考えているともしかしたらこの吾妻鏡の言葉は幻想に過ぎなくて、実は「無用長必要失」こそ本当ではないのかと思うようになった。つまり無用なものこそ長らえ、必要なものは征服され失われるということではないだろうか。奥州の滅びの原因は、贅沢したことではない。金という絶対的な富を持っていたことだったのだ。もしもそれをもって生き長らえようとすれば、軍事の天才義経を殺したりせず、秀衡の遺言通り、これを大将につけて、さらに優秀な外交手腕をもった人物を京都と言わず全国から大量に引き抜くことだったと思うがどうだろう…。

もっともらしき言葉には裏がある。この吾妻鏡の「倹存奢失」は、後に倹約を旨として政治を執り行う徳川家康に受け継がれて、倹約の美徳を国民に強いる貧乏思想の権化のような熟語なのである。そう言えば、家康にとって吾妻鏡は、政治の教科書のような存在であった。日本人の発想が今もって貧しいのは、もしかするとこのような倹ばかりを重視してしまう心貧しい呪縛が今もって続いているためかもしれない。佐藤
 

 


2002.12.18
 

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