宮沢賢治の青の時代 

−宮沢賢治の平泉での短歌二首−


宮沢賢治と言えば、すぐに思い出すのは、一連の童話群であるが、意外なことに賢治の創作の原典は、15歳から始めた短歌だった。それから一年後、16歳になった賢治は、県立盛岡中学四年生となり、修学旅行で仙台方面に行くことになった。早熟な感受性を持て余し気味の賢治にとって、この旅行は、自分と外界との距離を計るという意味で大いに意味がある旅行だった。この時、仙台、松島などを周遊し、賢治は初めて海というものを目にした。またその帰途、東北文化の原点とも言うべき平泉を訪れ、次の二首の短歌を詠んだ。
 
 中尊寺葉に曇る夕暮のそらふるはしてき鐘なる

賢治を含む盛岡中学の一行は、午後遅くなってから平泉に着いたのであろうか。五月晴れの空を日が西に傾き、伽藍を取り囲む青葉が木漏れ日となってきらきらと光っている情景が浮かんでくる。「青葉に曇る」ということの解釈は、夏が近づき、自己主張を始めた青葉の勢いを指していると思われる。私はこの青葉という言葉に、何故か賢治自身そのものを感じてしまう。生命力に満ちた木立に囲まれた中尊寺で、賢治は抑えきれないような創作意欲というものを内包させながら佇んでいた。そんな夕暮れ迫る時に、突然と梵鐘が境内一杯に響き渡ったのである。賢治はさっき見た青き青銅の鐘が突かれる音を聞き、それが自分の魂までも振るわすかのような錯覚にとらわれたのではあるまいか。

 の夏草の碑はみな月のき反射のなかにねむりき

平泉には夕暮れが迫っていた。賢治たちは、次に毛越寺に参詣した。大門を入ってすぐに賢治たちは、そそくさと、寺内の説明を受けながら、本堂の脇にある芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」の碑の説明を受ける。初五の「桃青」(おうせい)とは、もちろん芭蕉の号である。その碑の向こう方には、浄土を象徴する池、大泉ケ池があり、上空を見上げれば、群青色に染まる空に満月になり切らぬ月が木立の上に懸かっていて、次第に青き輝きを増していたのであろう。もしかしたら、月の光が大泉ケ池に映っていたかもしれない。その中で、古びた芭蕉の句碑が、月の青い光りを浴びながら、安らかな眠りに就いているように、賢治には見えたのであろう。
 

この二首の歌を鑑賞してみると、「」という言葉がキーワードになっているように感じる。一見写生の歌にみえるこの二つの歌には、共に二字ずつ「」が使用されている。この青が意識的に書かれたものとは思われない。おそらく無意識であろう。「」という言葉を考えながら、私はふとピカソの「青の時代」を思い出した。スペインからパリに出てきた青年ピカソは、その修業時代の二〇歳からの四年間を、独特の青のタッチの絵を描いた。一説によれば、お金が無くて、様々な色の絵の具を使えなかったと言われているが、おそらくそうではあるまい。じっとひとつの「青」という「色」にこだわりを集中することによって、色というものの根源を見極めようとしていたのではあるまいか。そんなピカソ的な感性というか、「こだわり」のようなものを賢治の短歌にも感じる。賢治もこのようにある時期「青」という色やイマージュにこだわることによって、後の彼の最高傑作となる「銀河鉄道の夜」の創作へと辿り着けたのであるまいか。

平泉を訪れた賢治にとって、平泉の景色は、あくまでも青のイマージュの中に存在した。つまり平泉の景色も、自分が心で抱く「青」色の中に浮かぶ風景であった。そのことが、先の二首の歌によく現れている。賢治の眼は、歴史の古都としての平泉を観るというよりは、ひたすら「青」に象徴される自分という得体の知れない内面に向かっている。賢治にとって、この「青の時代」の最大の興味は、やはり自らの外に存在する風景ではなく「青」というものに象徴される内なる自己であったに違いない。このことをもっと極端に言えば、外に存在するものをも、自分の世界に引き寄せて世界そのものを創り替えてしまいかねない芸術的才能の萌芽なのかもしれない。まさに畏るべき自我の強さと言うべきだろう。でもその位の自我の強さ(傲慢?)がなければ芸術という鬼道において、歴史に名をなすことなどできないということであろうか。佐藤

 


2001.6.29

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