宮 沢賢治と引越

【人生に無駄はない?!】

 引っ越しをしながら、ふと人生とは無駄なものの集積の過程であるかもしれない
と思った。ある時、これは必要だから捨てないでとって置こうと思っていたものが、部屋や押し入れの奥で肥やしになってしまっていることを知って愕然とし た。

でも反面、宮沢賢治の人生を考えながら、人生において無駄なものを集積することも、そんなに悪いことではないとも感じた。

賢治は、大正11年(1921)7ヶ月に渡る東京本郷の下宿を引き払って故郷の花巻に帰る時、皮のトランクいっぱいの原稿を抱えていた。この時期、賢治の 創作意欲は旺盛で、原稿用紙に童話の主人公が踊り出すようにして書いたと言う。最愛の妹としの病気悪化がきっかけの帰郷だった。誰よりも妹としは、兄賢治 の才能を信じていた。しかし一年後、賢治の童話の世界を理解していたただ一人の人妹としが若くして亡くなってしまう。

後に賢治が病床の中で、自分の短歌や詩を文語体に直して、文語詩を書き始める。ベットで賢治は、「もし自分が亡くなっても、文語詩が残るもね」と語ったと 言われる。このことから類推すると、賢治は自分の作品の中で、日本文学史に名を残すような作品は、至宝のような一連の童話や自由詩ではなく、格調高い文語 詩であると考えていたようなフシが伺える。

賢治は、37年という短い生涯において、膨大な作品群を生み出した。賢治の生涯においては、日本人の無意識を表象したような傑作「銀河鉄道の夜」や「注文 の多い料理店」などの極めて質の高い童話を書いたが、必ずしも自信のある作品ではなかったのかもしれない。

これらの童話作品は、賢治が己の無意識を介在させて描ききったもので、その質が自分自身で判断できるような類のものでなかったのかもしれない。つまり賢治 の作品は、賢治という一人の青年の心を介在して創作された魂の交信記録のようなもので、賢治個人の意識レベルを越えた人類の共通の無意識層にまで深く入り 込んだものだったのである。

しかし東京での下宿していた時代には、賢治の童話は、東京の出版社からはまったく相手にされなかった。自信を持っていた作品が受け入れられないで、賢治は 不安になる。繊細な賢治の心は、どんどんと追い込まれて、自信は揺らいでいた。もしかすると、自分の創作したものは、どうにもならないものであるかもしれ ない、などと考える。

高い次元で考えれば、ひとりの芸術家が、自分の作品を判断できるかどうか、ということでは、その作品の質(レベル)は、たかが知れている。自分の生み出し た作品を前にして、「はてこれは、いったい何なのだろう」と思う位が本物だ。始め明確な意図をもって創作仕掛けたのに、出来上がってみると、まるで違うも のに出来上がっていることがある。

自分の作品を前にして立ち止まるほどのものこそが真の芸術というものではないだろうか。つまり、どこかで個人の次元を越えて、ユングの言う「集合的無意 識」とか「元型」という次元から、そのイメージがやってくるものでなければ、時代を越えて残るような芸術作品には到底なれないということだ。その意味で、 賢治の文語詩は、賢治の思索過程の研究には役に立つかも知れないが、賢治が思ったように、文語にすることによって、日本文学の血脈に通じさせようなどとい う賢治個人の思惑は、残念ながら見事に外れてしまったというべきだろう。

引っ越しをしながら、賢治が一時挫折と感じたものが、実は賢治という芸術家を時代を越えて生かす創作の神からの恩寵であることを知り、背筋が寒くなった。 人 生において、無駄なものなどないということか・・・。

世間は賢治を理解できなかった。というよりは、こんな童話では商売にならないと思った。いつも、時代は天才を追い抜くことは不可能なのである。  

2005.6.29 Hsato

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