家族内殺人事件の
社会心理学的考察 (上)

日本人のこころで何が起こっているの か?!


佐藤弘弥
 

 1 日本人の心の中で何かが起こっている?

このところ、相次いで親子同士の殺害事件が連続して起きている。

去る1月10日、青森県八戸市では、18歳の少年が、前日の夜、パート従業員の母親(43)と弟(15)と妹(13)を鋭利なナイフで 殺害し、住居 である自宅アパートに放火したとして逮捕された。この少年は、信じられないことに、殺害した後、母の腹部を切り裂き、人形のような異物を入れるという猟奇 的な犯行に及んだ。少年は、犯行の動機については「パソコンに書いてある」と供述しているという。

そんな矢先、17日には、神奈川県の相模原市で57歳になる母親が、29歳になる引き篭もりの長男と知的障害のある24歳の次男を殺害 して自首する という事件が起きてしまった。自首した母親の供述によると、10年以上引き篭もりをしていた長男が、2ヶ月ほど前から、「オレが世の中をダメにする」と話 すようになり、他人に危害を加えかねないことを危惧した母親が、見かねて長男を殺害し、さらに自分が逮捕されれば、知的障害のある次男の面倒を見れないこ とをふびんに思って、次男も殺害したものだという。

仮に、このような家庭内でのトラブルから、親族間の殺害にまでいたる一連の事件を、「家族内殺人事件」として少しばかり社会心理学的な 考察を加えてみたい。

このふたつの事件以外にも、さまざまな事件が頭に浮かんでくる。一昨年であったか、裕福な都内の歯科医師夫婦の兄が妹を殺害し、バラバ ラに切断するという猟奇的な事件があった。また高野山では、年老いた母の首を切断した息子が逮捕されたことも記憶に新しい。

全体を見通してみると、一連の「家族内殺人事件」には、豊かな家庭もあり、また最貧の家庭もあり、単純に経済的な事由から起きた事件と 決めつけてしまうことができない側面があることが分かってくる。

そこで、社会心理学的に考えて、ひとつの仮説が浮かび上がってくる。それは日本人と呼ばれる社会集団の中で、人々の心の中で目には見え ない情動というものが喚起されて、起こっているのではないかということだ。

日本人の中で、暴力的で得体の知れない非理性的な感情が、マグマのように湧き上がってきているのだろうか。もっと言えば、犯罪を犯した 本人ですら考えもしなかった凶悪な犯罪行為に手を染めている可能性すらある。

 2 ユングが1919年ドイツ人患者の心に感じた危惧

かつて心理学者のユング(1875ー1961)がこのようなことを言っていたのを、思い出す。少し長文だが引用してみる。

すでに一九一八年に、私はドイツ人の患者の無意識のなかに、彼らの個人的 心理には帰することのできない独特の障害があるのに気づいていました。こうした非個人的現象はつねに夢における神話的なモティーフとして現れるもの で、・・・私はこうした神話的モティーフを元型と名づけました。・・・私が観察したいくつかの元型は原始性や暴力、残虐さを表しています。もし私が十分に そうしたケースを見ていたなら、当時ドイツを覆っていた特殊な精神状況に注目したことでしょう。私に見えたのは、抑鬱と落着きのない狂躁の兆しだけでし た・・・当時発表した論文のなかで、私は”金髪の野獣”が安からぬ眠りから揺り起こされようとしている、爆発もありえなくはないと示唆しました。・・・こ うした情勢が決してゲルマン人だけの現象ではなかったことは、それに続く何年かの間に明らかになったとおりです。・・・ドイツ人には集団心理への著しい傾 向があるため、一層観戦されやすいことが実地に示されたわけであります。」(C.G.ユング著 松代洋編一訳「現在と未来」所収「影との戦 い」より116頁〜117頁を引用 平凡社ライブラリー1996年11月刊) 

ユングは臨床医として、直にドイツ人の患者と接していた。しかし当時ユングは、ドイツ人たちの患者の心の中で起こっている共通した暴力 的な心理情況 について、それがいったいどんなことを招来するのか、分かっていなかった。ただ、漠然と、このうっ積したような暴力的な心理が、何かをきっかけに爆発し、 暴走を起こしかねないという危惧を持っていたことは事実だったのである。

もちろん、現代に生きる私たちには、ユングが危惧したドイツ人患者の心で起こっていた暴力的情動が、ドイツでやがて起こる「ナチズム」 という集団 的、民族的ヒステリーと結び付いてしまうことを歴史的事実として承知しているのである。このようにみると、20世紀最大の悲劇であるユダヤ人の大量虐殺 「ホロコースト」は、ドイツ人の心の中で、それが起こる20年ほども前から、徴候としてあったということになる。

日本人は、ドイツ人と同じように、集団心理に結び付きやすい傾向を持つと言われる。これについては、世界的な仏教学者で比較文化の研究 を行った中村 元氏(1912ー1999)が日本人の思惟の特徴として、「人間結合組織を重視する傾向」あるいは「個人に対する人間関係の優越」と「日本人の思惟方法」 (春秋社 1989年刊)という著作の中で分析していて、ほぼ定説化しているのである。

中村氏の説を簡単に言ってしまえば、日本人の「義理と人情」に弱いのは、イエやムラなどの地縁、血縁という人間関係によって出来ている 傾向が強くからということになる。ここから日本人は、個人というよりは集団に依存して生きる傾向が強いという性格も顕わになるのである。

しかしそんな日本人が、一番大切にしてきたはずの血縁の根幹にあたる肉親を傷つけたり、殺害まで及ぶという凶悪な暴力を振るう現象は、 日本人論にも修正を加えなければならぬ重要な問題を孕んでいる現象なのかもしれない。

 

3 家族内殺人が起こる社会的背景

各地で頻発する家族内殺人事件という凶悪な事件を考える時、この事件が単に偶然に起こっている事件とは言い難いものがある。そこには現 代の日本社会 が抱える諸問題が存在していると思われる。そこでこの事件の大まかな社会的背景というものについて以下の4点について抽出してみる。

第一に、日本独特の家族の結びつきが薄れ、言葉で言えば「核家族」というものに象徴されるようなコミュニケーションの断絶という問題が 横たわっているように思う。

第二には、小泉政権以降特に急速に進んだ極度なまでのグローバル化によって、都市と地方との格差や富裕層と貧困層という二極化が進ん で、戦後の急激 な経済復興によって形成されてきた自己を「中流」と認識する階層のほとんどが貧困層に移行してしまったという経済的な背景もあるだろう。

第三には、戦後教育の問題を指摘しないわけにはいかない。戦後の日本の教育(特に公教育)というものは、人間の心を培うという教育本質 の目標が忘れ さられ、「受験戦争」という珍妙な言葉に示される通り、受験のための教育が当たり前のようにして続いて来て、今でも当然のように思われている。

第四には、世界中でテロや戦争が蔓延化してという暴力的の影響だ。考えてみれば、テロや戦争の脅威の少ない日本の茶の間にいて、残虐な テロ現場や戦 場が映し出されない日は皆無と言ってよい。このような暴力映像が、幼少の頃より子どもの脳裏に焼き付けられていくのだから、ある種のサブリミナル効果を招 いて、暴力行為に対する嫌悪感が薄れている可能性がある。

以上の4点について、これを「家族内殺人」が起こっている社会的背景として、それぞれ分析を試みたい。

 4 「核家族化」と家族内殺人

たまたまかも知れないが、冒頭で上げた神奈川県での二人の母親が犯した子殺しも、八戸で起きた18歳の息子の母と兄弟を殺害した事件 も、核家族の中 での事件だった。もしもここに祖父母がいたなら、親子の緩衝材となって、犯罪が防げたと短絡的に判断することは早計というものだが、核家族というものを生 んだ日本社会の変化を考えることで、核家族が、犯罪にもたらした影響を分析することは意味のあることだと考える。

核家族とは、一般的には夫婦(もしくは片親)と未婚の子どもで構成する家族を指す。日本社会は、農耕中心の社会だったこともあり、働き 手を確保しな ければ、農作業ができないこともあって、一夫婦だけではなく、祖父母夫婦や跡継ぎの長男夫婦が同居するのが当たり前であった。要するに良い悪いは別にして 大家族が普通だったのだ。

ところが、戦後の急激な経済復興の中で、地方の農村部から人手が急速に都市部へ吸収されて行って、「民族大移動」と呼ばれるほどの第一 次産業から第 二次産業への人口動態の変化が起きた。これは日本人の考え方や心理にも大きな変化をもたらす契機となる社会構造の大変化だった。

こうして、大家族で支えられてきた日本の家族のあっという間に崩れ去って行ったのである。この伝統的家族関係の崩壊は、次に祖父母の愛 情も注がれて育てられてきた子どもたちは、田舎でも都会でも、自分の親との接触だけで、育てられることが普通になって行った。

また日本における核家族化の特徴は、兄弟が少ないという問題があり、かつては夫婦共働きで、ひとりでアパートに住む子どもを「鍵っ子」 と呼んだこと もある。この家族をめぐる社会構造の変化は、単に日本の伝統的家族関係の崩壊という血縁の部分に限定されたものではなかった。それは人々が住む地域に基づ く地縁関係の結びつきにも決定的な影響力を与えてしまった。

その結果、都会の人間関係に示されるように、隣の家の人物が、どのような人物であるか、どんな職業に就いているかも知れないというほど 稀薄化してし まったのである。地縁的結びつきの濃かった田舎においても、農作業の機械化などにより、「結い」などによって、農作業の相互扶助の必要が無くなって、最近 では、頻繁な行き来が無くなって、田舎社会においても地縁関係は、希薄化する一方である。

以上までのことから、ふたつのキーワードが浮かび上がってくる。ひとつは、「家庭内の孤独化進行」ということだ。もうひとつは「人間関 係の希薄化」とものである。

ひとつ目の「家庭内の孤独化」について考える。かつて日本の大家族の家庭では、家長を頂点として、きっちりとしたヒエラルキーがあっ た。しかし核家 族化したことで、このヒエラルキーは崩壊し、特に仕事に目一杯精を出す父は、子どもに接する時間も少なく、母親が子どもと一対一で躾けや学校の問題を抱え ざるを得ない状況が起きて家庭内はどんどん孤独化していった。その結果、一般的に言って母親は、夫への少なからぬ不満をうっ積し、子どもは子どもで、兄弟 の少ない少子化の進展と相まって、やはり同じように、孤独な少年時代を当たり前に通過することを強いられたのである。

ふたつ目の「人間関係の希薄化」の問題であるが、農村社会にあっても、経済成長の中で、農業生産にも機械化の波が押し寄せ、地縁関係に 頼る必要がな くなり、地縁関係が急速に薄れ、都会ほどではないにしろ、行き来が少なくなった。以前は、子どもは、地区全体で育てるような文化風潮があり、頑固オヤジと 呼ばれるような地域の長老的人物がいたものだが、ったが、今は都会ほどではないにしろ、隣近所の子どもを叱ったり、家庭問題に首を突っ込んで意見をするな どの風潮はほとんど無くなってしまった。

冒頭の三つの家族内殺人事件を核家族時代に起こった特有の事件ということはできない。それでも私は、少なくても、日本社会が、急激に核 家族化し「家 庭内の孤独化」と「地域社会における人間関係の希薄化」の進行によって、社会的な歯止めが利かなくなったというところに、原因の一端はあるように思えるの である。

5 格差社会の深刻化

第二の社会的背景は、経済の問題である。家族内殺人というこれまでの日本犯罪史上でも、まれにしかなかった凄惨極まりない犯罪行為と経 済問題の相関 関係を、軽々に論じることは出来ない。しかし日本経済が、グローバル化の流れの中で、二極化が否応なく進み、勝ち組と負け組に分けられ、「一億総中流社 会」ともいうべき、かつての日本社会は、音を立てて崩れてしまった。そんな中にあって、日本人の心理にこのことが影響しないという方が不自然というもの だ。

 ◆先進国中第3位となった日本の貧困率
ちなみに、現在日本における格差の拡大の流れは、堰が切れた段階に入ったとの見方が なされるほどに深刻だ。「格差社会」(橘木俊詔著 岩波新書 新赤版1033 2006年9月刊)によれば、日本の貧困率は、2004年度のOECD(経 済協力開発機構)の国際貧困率比較で、15.3%で、加盟国25カ国中5位である。先進国ではアメリカの17.1%、アイルランドの15.4%についで三 位という高さだ。貧困率の定義については、その国の平均的な所得の50%以下の所得しかない人を貧困者と定義し、各国において、何%の人が貧困者であるか を見るものだ。これを見ると、日本社会が、北欧のような貧富格差の少ないタイプの社会とは大きく離れ、アメリカ、イギリス型の格差是認社会に移行している 姿が浮き彫りになっている。

また橘木氏は、世帯類型の分析から、格差拡大が大きく影響している世帯を、母子家庭(貧困率53。0%)、高齢者単身世帯(43。 0%)のふたつと見ている。特に私は、「高齢者2人以上世帯」の貧困率の20.5%と「高齢者単身世帯」の貧困率を合わせると63.5%にも上ってしまう 点に注目したい。要は高齢者家庭の6割以上の家庭が、日本人の平均所得の50%以下という所得で生活していることを意味している。この統計をみると、日本 の高齢者は金持ちが多い、という見方が、まったくの幻想であることを物語るものである。現在の日本は、「高齢者貧困の時代」とも言うべき非常事態ではない だろうか。また世帯主別の貧困率でも、29歳以下で25.9%、70歳以上で25.3%と貧困率が高くなっていることも、若者がアルバイトなどの非正規雇 用で生計を立てたり、僅かな年金がどんどん削られて貧しくなっていく高齢者世帯の姿が浮かんで来て複雑な気持ちにさせられる。

以上のことを加味し橘木氏は政治の責任に言及している。

結 論から言えば、私は、構造改革は格差拡大を助長していると考えています。所得格差自体は、小泉内閣による構造改革が登場する以前の八〇年代から拡大し続け ています。したがって、構造改革が格差拡大の最大の根本原因でだとは考えません。しかし、格差が拡大していることを容認し、規制緩和や競争促進などの政策 によって、それを助長していると私は判断しています。」(前掲書 58ー59頁)

 ◆小泉政権が日本の貧困を助長した!?
確かに、小泉政権誕生以降、「聖域無き財政再建政策」ということで、厳しい歳出のカットがセーフティネットのなしに容赦なく行われてきた。小泉財政改革 は、特に社会的弱者に厳しいものだったことが、上記の統計などからも明確に浮かんでくる。

もう少し、日本の現在の格差拡大の決定的要因となった小泉改革を分析してみよう。

大雑把に小泉改革を分けると、次の6項目ほどになろうか。

まず第一に公共事業費の削減である。

第二が不良債権を処理し金融を再生すること。りそな銀行には、これによって公的資金が注入された。

第三に年金制度と医療制度などの福祉政策の転換(と言うより大削減だ!?)。年金制度改革については、昨今の年金問題をめぐる混迷と惨 状振りが如実 に物語るように完全に失敗したとみるべきだ。医療制度の改革も、国民にとって老後の不安を解消する改革というよりは、国庫の歳出を抑え、国民の負担を増や すもので、特に高齢者や母子家庭などの社会的弱者層にとっては、ひどい仕打ちと言ってよい。また診療報酬は大幅に引き下げられ、ただでさえ厳しい病院経営 はますます厳しくなり、リハビリ医療制度が180日で切られてしまうなど、改革とな名ばかりの「改革」が断行された。

第4に、特殊法人改革。これは郵政民営化や道路公団民営化、石油公団民営化などがこれに当たる。しかし道路族議員の抵抗や官僚の抵抗は 凄まじく、彼 らとの妥協の中で、結局、最近のガソリン税をめぐる「道路特定財源」の論議の中で明らかになったように、14千キロに及ぶ道路整備中期計画は、未だにその まま生き残っているという中途半端のまま終わった。ただひとつ、小泉改革の本丸と言われる郵政民営化は別だった。郵政民営化法案に反対した自民党議員に対 し、衆議院選挙選で刺客候補と呼ばれる候補者を立てるなどして、選挙戦に圧勝し、結局この郵政民営化法案を通してしまう。しかしこの郵政民営化について は、国民の優良資産(郵便貯金)をグローバル化の流れの中で外資に渡すものとの批判がある。

第5に、三位一体改革と呼ばれた地方税財政制度改革。三位一体とは、地方自治体への「補助金の削減」、「地方への税源移譲」、「地方交 付税削減」の 三つをいっぺんに行うという改革である。言葉は確かにカッコ良い。だが、中身を見れば、この改革が地方の財政を極端に悪化させる元凶となったことは否定で きない事実だ。ちなみに2004年から2006年についてみれば、補助金の削減額は約4兆7千億円。これに地方交付税の減額は5兆1千億円で、合計9兆8 千億円の歳入カットとなる。それに対し税源移譲分は、僅か約3兆円であるから、差し引き6兆8千億円が削られたことになる。これによって地方財政は、言葉 は悪いが「夕張」状況に追いやられてしまったということになりはしないか。

第6に、グローバル化の流れを受け入れての規制緩和政策である。これにより小泉政権は、ことごとくアメリカブッシュ政権寄りの政策を取 り、コインの 表裏のような「強いドルと弱い円」の金融政策を追認して、日本の一人当たりのGDPの急降下を招いてしまったということができる。でも、この「強いドルと 弱い円」を容認する金融政策によって、日本の輸出産業には、逆に追い風となった。この間、トヨタやキャノンなどに代表される輸出産業は、円安の追い風を背 景に、リストラ効果、昇給の制限、非正規雇用、国際的分業(アウトソーシング)などの手法によって、空前の利益を上げた。そしてトヨタは、自動車メーカー として、生産台数世界一を目前としている状況である。

しかしながら、この輸出依存型の日本経済は、アメリカの企業のあり方とは明らかに違っている。それは創業から僅か10年足らずでマイク ロソフトの牙 城を揺るがすまでなったグーグル社のようなIT技術や発想力で、世界をリードする新しい企業が、ほとんど日本には存在しないことでも明らかである。

以上のことから、小泉改革が、地方や社会的弱者に重くのし掛かってきたことは分かった。小泉政権の政策について、今頃になって、小泉政 権の経済の指 南役だった竹中平蔵氏がどんな弁解をしようとも「強いドルと弱い円」の金融的舵取りを容認し、三位一体改革を推進したことによって、地方財政を破綻へと追 いやり、輸出産業優先の産業構造を追認し、さまざまな形の格差を生みだして来ていることは、もはや否定のしようのない事実である。

小泉政権5年5ヶ月の構造改革路線を一言で総括すれば、それは強い者がますます強くなり、弱い者がますます弱くなる政策の実行だったと 言うことになる。 一方その反面、この節の冒頭で述べたように母子家庭や高齢者などで、貧困層が増加しているという統計結果がでている。特に母子家庭の貧困の問題について、 私は注目している。

 ◆母子家庭の貧困と母親殺人
というのは、母子家庭あるいは、母親に対する暴力がエスカレートしている傾向が顕著で、おそらくその結果として子どもによる母親殺人も目立ってきていると いうことになるのではないだろうか。

最近の統計をみても、家庭内暴力の矛先は、圧倒的に母親に向かう傾向が強い。ちなみに平成一八年度の青少年白書によれば、家庭内暴力の 対処別状況と しう表があり、家庭内暴力の実に61,8%が母親に向けられたものとなっている。これに対して父親には10.0%、兄弟姉妹が5.6%という結果となって いる。

思いあまって、母親が子どもを殺害するという例は、すぐに思い出せる。それはギリシャ悲劇の王女メディアの話しだ。夫の浮気から王女メ ディアは、嫉妬の余り、わが子3人を殺害に及んでしまう。

また同じギリシャ悲劇では、エディプス(オイディプス)が、知らずに自分の父親を殺害し、母親と結婚してしまうという悲劇の物語があ る。これをフロ イト(1856−1939)は、「エディプス・コンプレックス」名付けて、男性心理の中にある父親を殺害し、母親と交わりたいとする無意識の願望として発 表し物議を醸したことで有名である。

子が母親を殺すというギリシャ神話は、オレステースの復讐物語がある。彼は父アガメムノーンを殺した母への復讐として、母す殺す悲劇と して、ギリ シャ悲劇の作家たちに取り上げられているが、国民詩人とも言うべきホメロス(前9世紀頃の人)の著述には、父を一緒に殺害したアイギストスへの復讐の話し はあるが、母殺しは曖昧にされたままになっている。このホメロスの態度は、母殺しというものが、古代ギリシャの時代にあっても、タブーだったということが 想像できる。

それに対し、少し時代が下って、悲劇詩人アイスキュロス(前525−前456)の三部作「オレステース」では、自分を殺害しようとする 母が、自分の 乳房を指さして、命乞いをし、オレステースが躊躇するのだが、友人がアポロン名を出して励まし、復讐が成就される。この躊躇こそが大切で、タブーを打ち破 るには、アポロンという太陽に象徴される神の助力が必要だったのではないかと思われる。

この復讐劇は、シェークスピア(1564− 1616)の「ハムレット」にも影響を与えていると考えられる。それはハムレットでは、殺された先王の弟が殺害して、国王の座と美しい王女もまた自分のも のとしたように描かれている。もしかすると本来は、この陰謀に母も一枚噛んでいた可能性がある。そうすると構図としては、「オレステース」の場合と同じに なる。そしてこれは私の仮説であり、ひとつの可能性だが、ハムレットは、本来あった「母殺し」をタブーとして葬るために、構成にデフォルメを加えて、母は 何も知らない貞女のようにしたとも考えられる。ハムレットのセリフでは、少し母をなじるシーンもあるが、結局シャークスピアは、「オレステース」の悲劇を 題材としながら、当時の世相や風習などを考慮して、母殺しのスキャンダルを闇に隠したのではあるまいか。

 ◆母殺しというタブーが破られたのか?!
やはり母親殺しは、長い人類の歴史の中でもタブーだったのかもしれない。そのタ ブーが存在する根本には、子どもという弱き存在にとって、母親というものは、もっとも頼りにすべき存在だったという極めて単純な理由が上げられる。そんな 母親を殺害に及ぶというのは、人類創生以来のタブーとして、暗黙の内に守られてきたと考えられないだろうか。こうしてタブーとなった「母殺し」は、おそら くどこかで母親殺害事件があったとしても、その事実は通常、闇に葬られ、歴史からも消されてきた可能性が高い。ところが、最近の事件では、この母親殺害と いうタブーがいとも簡単に破られているように見える。これはいったいどのようなことなのだろうか・・・。

 6 戦後教育と受験戦争

次に家族内殺人の社会的背景として、教育の問題を考えてみる。戦後教育において、最大の問題は、何と言っても「受験戦争」、「受験地獄」とまで揶揄されて きた「進学」のあり方にある。この受験のあり方がエスカレートしたことにより、教育の中身に歪みが生じ、人間として一番肝心な情操教育が次第にないがしろ となり、有名大学に進学することが錦の御旗のように喧伝されてきた。

 ◆東大を頂点とする日本的学閥階層制
この戦後教育の常に頂点として存在してきたのは、国立大学法人東京大学であった。この東大を頂点とするヒエラルキーは、日本の教育制度そのものを、秩序付 けてきた。ある意味では、教育関係者も親も本人も、この頂点を目指すことが、目的となり、受験のための教育が、主流となってしまった。もちろん、その東大 進学へのコースを外れた者は、次の段階のコースを選ぶことによって、日本における受験のヒエラルキーは保たれてきた。このことは、現在でも、東大卒業者が 中央省庁の高級官僚や日本を代表する有力企業のトップを輩出し続けていている事実を上げれば議論の余地のないことである。

その結果、戦後教育において、社会的人間としての心を育てる教育が受験教育の下に置かれ、学校関係者も、「東大に何人合格した。他の一流大学に何人合格し た」という具合に、合格者数と合格率を競うようになった。こうして日本中の学校の入試の結果による序列化が進んだ。当然のように、受験のための受験テク ニックに特化したカリキュラムを最初から組む私立校が優位となる。文科省の縛りを強く受ける公立校は不利な立場に置かれ、かつては東大や一流大学への進学 率を誇った公立校は、急速に社会的評価を失ってしまったのである。

また塾や予備校は大盛況となり、都内などでは、小学生や中学生たちが、夜遅くまで、そっちこっちの塾を渡り歩く姿が見受けられるようになった。これもまた 受験戦争のもたらした悲劇である。毎日、夜遅くまで、受験のための教育を受けることが、日常茶飯事になっていたのでは、健全な心が育つことは難しくなる

そして今や、教育界まで、貧困化の影響が強く反映している状況になってきている。一番分かり易いのが、日本の教育のヒエラルキーの頂点に立つ東京大学に学 ぶ学生の親の収入が富裕層で占められてきているという現実だ。またこの暗黙のシステムの中で問題なのは、受験戦争の中で、勝ち組負け組にいく者に否応なく 分けられるところにある。要は落ちこぼれ、挫折していく者を拾い上げるシステムがないところにある。また受験テクニックに特化した教育のために、人間とし ての本来あるべき倫理観や教養というものが身につかないまま大人になってしまうことにあると思われる。

 ◆東大生の実態調査
最新(07年12月7日)の「東京大学学生生活実態調 査」によれば、東大生の「家庭状況」についてこのように記されている。(下の二表は、この実態調査からの転載である。)




<調査の期間> 2006年 (平成18年)11月下旬〜12月下旬。
<調査の対象及び抽出率> 学部男子・女子学生。学部・ 科類別無作為抽出法で、在籍者数の1/4を抽出。
<調査の記入など>郵送調査で行い、対象者自身が記入す る(自記式)方法。


東大入学者の内、東京都出身が25.0%、関東出身が31.4%で、ふたつを合わせると56.4%が関東出身者となる。

出身高校については、全体の47。4%が中高一貫型私立校、公立高校が39.5%、国立(大学付属)が8,7%の順となる。

また親の職業は、「管理的職業」が37.7%。親の年収については、950万円以上が47.8%となっている。

この事実から、東大生の典型的モデルは、東京もしくは関東近郊の中高一貫型私立校の出身者で親の職業は公務員もしくは企業の管理職で高額所得の家庭の子息 子女というイメージとなる。ここには明らかに出身地、出身校、親の職業、年収規模に遍在性が認められる。

また「生活費の状況」では、自宅生が68,300円、自宅外生が148,000円となっている。この生活費のうち、「家庭からの仕送り・小遣い」は、自宅 生が32,600円、自宅外生112,000円となっている。

ここから東京に自宅のある学生は比較的楽な学生生活を送れるが地方の学生の親にとっては、かなりの高収入がないと、東大生を支えきれないのではないかとい う実態が浮かび上がってくる。これは所得の地域間格差が東大生の構成分布にも影響を及ぼしつつあることを物語っている結果というべきである。

先に取り上げた橘木俊詔氏の「格差拡大」でも、次のように記載がある。
東大生の持つ親の所得は、日本の大学では一番高い水準にあります。二、三〇年前に は、慶應義塾大学など一部の私立大学でした。しかし今日では親の所得が比較的高いとされていた慶應義塾大学よりも東京大学の方が高くなっています。ごく最 近の興味深い例を紹介しましょう。二〇〇六年四月に開校した愛知県の蒲郡市の海陽中学・高校は、全寮制のエリート校を目指しており、年額三五〇万円が必要 です。親の所得が一〇〇〇万円以上でないと進学は無理と言われています。イギリスのパブリックスクールのイートン校をモデルにしています。階級社会である イギリス流の教育制度が日本に根付くかどうか、興味の持たれるところです。こうした例は、親の所得の高い子弟がいい教育を受ける時代になったことを、ある 意味で象徴的に物語っています。これは、階層の固定化へもつながる懸念があります。」(115ー116頁)

問題は、橘木氏が指摘した日本社会において、「階層の固定化」である。要は、高級官僚や政治家、医者などの社会的に地位が高く高収入を得られる家族の子弟 が、お金の掛かる有名大学に入り、そのまま親の地位を受け継ぐような職業に就くということだ。

橘木氏は、東大の中でも、ダントツに偏差値が高く、最難関と言われる東大医学部(理V)の極端な例を上げている。

神戸のある進学校の卒業生が、東大理V(医学部進学課程)の二三.三%、京大医学 部二一.六%の合格占有率となっています。」(97頁)というものだ。

驚くべき事態である。東大入学に特化したひとつの進学校が、東大理Vのほぼ4分の1の合格者を出しているのである。これではますます、資金のある親は、東 大理Vの予備校化した進学校にお金に糸目を付けずに入学させたいと思うに違いない。

 ◆杉並区立和田中学の「夜スペ」は教育の機会均等否定の思想
先月、東京の杉並区立和田中学校で、この学校の成績優秀者のみが、サピックス(進学塾SAPIX)という塾講師による夜間補習授業(「夜スペシャル」略称 「夜スぺ」)を受けるという奇妙な事態が発生している。考えてみれば、補習授業というものは、一定の成績を取れなかった学生が受けるべきもので、逆に成績 優秀者しか、この補習授業を受けられないというのでは、本末転倒の話しではないだろうか。

かつて、リクルートの社員だったという民間から採用された某校長は、優秀な生徒のレベルを更に上げることで、全体の教育レベルを上げることができるとの持 論を展開しているが、どのように考えても、その補習を受けられない生徒の思いを忘れた差別待遇であり、もっと言えば日本国憲法下における公教育のあり方を 根本から否定するに等しい暴挙そのものだ。大体「夜スペ」などという、まったく美意識や心意気を感じさせない言語センスひとつをとっても、この企画の胡散 臭さを象徴していると言うべきだ。以上、受験戦争の過熱化の中で、杉並区という新しい山の手と言われるような住宅地の公立校ですら、受験戦争の煽りを受け て、少し正気を失ってしまているのではないかと感じるのである。

さて、この和田中学の問題で、メディアは中立的な報道に終始しているようである。これは、これまでのメディア自身が、受験戦争を容認し、むしろその事態を ビジネスにしてきたことからの視点の歪みから来ていると考えられる。例えば、「週刊朝日」、「読売ウィークリー」、「週刊毎日」などの一流新聞系の週刊誌 は、競うようにして、各大学の合格発表の後、どの大学へどこの高校が何名合格したかというような詳細な結果記事を発表し、日本中の高校の序列化を商売のネ タにしている。これはある種のポピュリズムであり、受験戦争の事実上の容認であり、健全な姿とは言いがたい。

以上の日本の教育問題への認識をもって、昨年5月に福島県会津若松市で起こった高校生による母親殺し事件を考察してみることにしたい。

家族内殺人の 社会心理学的考察(下)

つづく


2008.2.4-8 佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ