川田悦子さん当選の意味

薬害エイズのジャンヌダルク国会へ

 
世の中が、動いている実感がした。久しぶりに政治に正面から気持ちよく向き合えたそんな感じだった。それは、10月22日におこなわれた衆議院二十一区(東京の立川、昭島、日野市)の補欠選挙で、川田悦子さんが当選したというニュースを聞いたからだ。

この補欠選挙は、元議員の刑事被告人山本穣司(民主党)の議員辞職によって、行われたものだが、無党派に何が出来るというひねた考えも聞かれる中で、自民党以下民主党、社会党も枕を並べて討ち死にしてしまう中、慢性的な政治不信病に陥っている私としては、痛快なニュースであった。

朝日新聞は、このことを一面で取り上げて、更に社会面では、『「普通のお母さん」政党倒す』という小見出しを付けて報道した。しかしこの川田悦子さんという人物は、とても「普通」などではない。川田さんの経歴がそのことを物語っている。

彼女は、1949年福島県の表郷村に生まれた。白河市に隣接する山村である。地元も女子校を卒業すると上京、23歳で結婚し、二人の息子を授かるが、76年僅か生後6ケ月で、次男龍平氏(現在24歳)が血友病に罹っていることを告げられた。この頃、彼女は向学の思い止まずに通信教育で大学の勉学に励んでいたが、これも最愛の子息の通院が、日課となり、ついに断念せざるを得なかった。

しかしこれは彼女を襲う試練としては、ほんの序の口にすぎなかった。何と次男龍平くんが小学校5年の時(85年)、エイズウイルスのキャリアであると診断されてしまったのだ。それはとてつもない重い十字架であった。しかもその原因は、血友病患者に使用されていた血液製剤であった。

ここから彼女の精神の本当の強さが発揮されることとなった。彼女は悩んだ末に、小学校5年生の龍平くんにその事実を告げた。
「残念だけど、あなたの体にはエイズウイルスが入ったのよ、でも大丈夫お母さんも一緒に戦うからね」
これは彼女が、息子と二人で、一生この重い十字架を背負っていく覚悟を固めた瞬間でもあった。翌年の86年には早速「血友病の子どもを守る親の会」を立ち上げ、全国で厚生省の不手際によるエイズ感染の悩みを持つ人々の先頭に立つこととなった。

そしていよいよ、93年は、問題のある輸入血液製剤を放置した国(厚生省)と製薬会社5社を相手取って、裁判を起こしたのである。この時、流石の不屈で通る彼女にも少なからぬ苦悩の選択があった。それは彼女の夫が、国や大企業を相手に戦うことにいささかの躊躇を感じたことであった。しかしそれでも彼女の信念は変わらなかった。彼女は引き留める夫と離縁をしながらも、息子龍平くんと共に、信念を貫く道を歩き続けた。

「被害者がこそこそするような社会はおかしい」これが彼女の主張の全てだった。様々な曲折を経ながらも、世論は明らかに彼女たちの真剣な眼差しに共感を感じ味方に回った。当然と言えば当然のことだった。。

日本中の国民が、国と製薬会社の無責任な対応に怒り、彼女たちを応援する中、96年3月、彼女たちの主張の正しさが証明される時がやってきた。国と製薬会社が自らの非を認め歴史的な和解が成立した。事実上彼女たちの全面勝訴に等しい和解であった。こうして社会正義は守られたのである。川田悦子という人物は、全国の血友病患者の被害者に事実上の勝利をもたらす文字通り原動力の役割を果たしたのである。

彼女は、この和解の後に確かこんなメッセージを語った。
「薬害エイズの運動で、学んだのはあきらめずに立ち上がる大切さです」
このような人物が、国会に行くことは、実に意味がある。あきらめない市民が増え、さらにもっと政治参加の第一歩である選挙に行く市民が増えてくれば、今後政治状況に変化が起こるかもしれない。そんな予感がする。

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私が初めて川田悦子さんを見たのは、HIV裁判の過程で、彼女の次男川田龍平氏を介してだった。テレビを見ていると、ニキビ跡も若々しい18、9歳の青年が、自らの意見を信念を込めた通る声で、しかも素晴らしい論理構成で主張している。日本にもまだ青年にもこのような素晴らしい若者がいると感心したのも、つかの間、実はその人物が、エイズのキャリアだと知った時は大変ショックだった。神さまは、何でこんな立派な青年をこんな辛い目にあわせるのか。と一瞬神さまに文句を言いたくなる心境だったが、また同時に疑問が湧いてきた。それは「この青年の一点の曇りのないさわやかさは、いったいどこからくるのだろう」ということだった。

まもなく、その私の疑問は、簡単に解けた。川田悦子女史がマイクの前に立ち、笑顔で話している姿に接し「なるほどこの母あって、この子ありか」と、なったのである。
 


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2000.10.23