言霊の危険

ある芭蕉の句に寄せて


 

今日は佐藤も妙なことを言うものだ、と思う人が多いだろう。でも黙って聞いて貰いたい。
その意味は後で、生涯かけて考えて貰えばいい。

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ある人物が「田一枚、植えて立ち去る、柳かな」などと、芭蕉の句を、あたかも自分の心境のごとく書いている。このような安易な態度は、さけた方がよい。何故ならば、この句は、芭蕉の死生観を物語る言葉であり、芭蕉の思想そのものだからだ。

人は、たったひとつの言葉や思想によって、生かされもすれば、殺されもする。冒頭のような危険極まりない句を、真言(マントラ)のように簡単に好きになってはいけない。

昔から、日本人は、言葉を言霊(ことだま)と呼び、何か神秘的な力が宿っていると信じられてきた。この芭蕉の句は、死を覚悟した句である。芭蕉は、奥の細道を書き上げて死ぬ気だったからいい。しかし、まだまだ青二才の我々が簡単に、好きだの嫌いだのと言ってはならない句のように感じる。

もちろんこの句は、芭蕉が、生涯の師と仰いだ西行法師の次の和歌に応えて作られたものだ。

道の辺に、清水流れる柳陰(やなぎかげ)、しばしとてこそ、立ちどまりつれ

西行は芭蕉から数えて500年前に生きた漂泊の歌人である。現在の栃木県の那須地方に芦野(あしの)という農村がある。その田んぼの中に、見事な柳があり、芭蕉は、西行が詠んだこの和歌を意識しながら、この柳を鑑賞したのである。

普通の人間であれば、「ああ、これがあの西行さんが詠んだ柳か…」で終わるところだ。しかし芭蕉はその柳を、ただ見つめるのではなく、西行の芸術すら乗り越えようと、その柳を魂でみているのである。だから西行が「しばし立ち止まって見ていきなさい。」というのに対して、「立ち去る」というあえて西行に反抗するような決意の言葉を発することになるのである。

通常の解釈によれば「村人が田んぼ一枚植えるくらいの時間を過ごして、柳の前から、さっさと立ち去って行こう」というほどの意味でしかない。しかしこの句を詠んだ時の芭蕉の潜在意識を分析すれば、「田」とは、芭蕉にとっての最後にして生涯最大の作品と考えている「奥の細道」そのものであり、柳とは西行法師その人なのである。だからこの句は、次のように解釈する事ができるはずだ。

尊敬する西行法師よ、私は、奥の細道を書き終えて、あなたの芸術的境地を乗り越えて行く覚悟だ。私は自分の生涯の目標を、その一点に賭けている。しかる後、私の精神と思想は、この奥の細道という作品の中で、永遠に生き続けるだろう」という解釈になるのである。つまりこの句は、俳句に、自分の命すら捧げる決意と覚悟を含ませた句なのである。もっと大げさに言えば、この句には、芭蕉という人物のが込められていると言ってもいい。

芭蕉の死生観(死にたいする考え方)をよくあらわしている句に”野ざらしを、こころに風の、しむ身かな”(「野ざらし紀行」より)というものがある。そもそも「野ざらし」とは、野原にさらされたドクロのことを指す。だからこの句の解釈は、「この旅をするに当たって、自分は、たとえ旅の途中で、死に野ざらしとなっても、この旅に賭けてみたい。それにしても秋風が、身にしみるなあ」というのである。

更に旅が進んで来ると、”死にもせぬ、旅寝の果てよ、秋の暮れ”(解釈;死ぬ覚悟で、旅に出たのだが、どうやらまだ自分は死んでいないようだ。秋はいよいよ暮れてきて、寒さもひとしをだ)

人は、死生観や思想(自分が正しいと信ずる考え)に殉ずるものである。簡単にいえば、人がどのような考えをその根本に持っているかによって、運命も変わるということだ。当然、潜在意識が、死を欲すれば、その人間には、死が自分の寿命より早く訪れることになる。芭蕉という人間は、奥の細道の冒頭で、「古人も多く旅に死せるあり」と旅の途中で死ぬことを賛美するような言葉をのべている。どうも芭蕉は、旅において死ぬことに美学を感じている節がある。
 

元々芭蕉という人間は、37才の絶頂期に隠居をした変人である。別の表現をすれば、芭蕉という人物は、早く自分を老け込ませ、そして自分の思想や芸術の中で死にたかった人物であった。だから彼が、四十半ばで、奥の細道を旅する時には、完全に老人の風体(ふうてい;姿のこと)になっていた。そして51才で、見事に旅人として、旅の途中で死んでみせたのである。つまり彼の潜在意識が、彼の早すぎる死を呼び寄せたと言ってもよい。

誰に限らず、分からない言葉や思想を生半可な知識で語らぬ方がよい。分からぬことは、分からないで良い。背伸びや、知ったかぶりは、危険ですらある。

知ったかぶって、安易に芭蕉の句などに触れぬ方がよい。この句を本気で好きになってしまえば、その生涯を、この句に込められた言霊の威力によって封じ込められてしまうことにもなりかねない。何百年に一度しか現れぬような芭蕉のような人間の言葉というものには、それなりの重みと力がひそんでいることを忘れてはならぬ。佐藤。
 


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1997.11.16