芸術に触れる態度

感性と知性


 
鑑真和上展で気になったことがある。それは多くの人が入口で、解説のイヤーホンを耳に差していることだ。それに手には、小さなレジメを持っている。このような風潮は、歌舞伎や能などの伝統芸能でも同じだ。みんな解説の声に頼って、作品に触れようとする。

しかし私はこの風潮を敢えて、自分の感性にフタをするような行為だと云いたい。誰もが内面に自分なりの感性という「光」を持っている。それなのにいかに権威とは云え、人の感性に頼っているようでは、自分なりの感性が育ちようがないではないか。

こんなエピソードがある。ジョン・レノンがオノヨーコと連れだって、歌舞伎座に行った時のことだ。ジョンは、意味も分からない日本語を必死で聞きながら、涙を流していたと云う。出し物は分からないが、とにかくジョンは、ジョンなりの感性で歌舞伎の芸術というものを感じ取って、泣いていたのだ。その後、ジョンとヨーコは、インタビューに応じた。ジョンは、何を聞かれても、歌舞伎の声色で「♪♪?♪」としか答えない。ジョンは、自分なりの耳で覚えたデタラメなセリフをずっとしゃべり続けている。その横で、ヨーコが笑いながら、答える。「ジョンは、歌舞伎の感性が気に入ったようね」それでもジョンは、自分の感じたままの音を、歌のようにしゃべり続ける。

本物の芸術作品には、知性による解説など遙かに及ばないパワーとエネルギーが内蔵している。別に解説など聞かなくても、自分の感性を信じて、内面のアンテナを立てておけば、必ず伝わってくるものがあるのだ。もしも感性で味わった内容を、それ以上深く考察したければ、見終わった後で、資料を集めれば良い。

すなわち芸術作品を知性によって知るという行為は、芸術を知識として得たいと思う人間のやるような行為であり、芸術の本質を分かっていない人間の陥っている愚である。本来芸術というものは、芸術家の感情の発露そのものであり、それを創作した芸術家個人の意識を遙かに越えて人類共通の無意識領域にまで達するほど奥深いものである。

だからこそ人が優れた芸術作品に触れる時、何が一番大切かと言えば、それは間違いなく「感性」である。感性をもって初めては人は、偉大な芸術家が人類普遍の無意識領域にまで分け入って創った芸術の「真」(魂)の部分に触れることが可能となる。鑑真和上像などのような偉大な芸術作品を鑑賞することは、云うならば限りない宇宙に心を遊ばせるような行為である。そこで他人の感性や解説に頼っていて何になろう。たとえその道の権威と言われる人であっても、対象となる芸術の真の価値と意味を理解する者など皆無に近いものだ。

したがって本物の芸術を鑑賞する態度というものは、「仏に在っては仏を殺せ、自分の内部からでる真実の光だけを信ぜよ」という禅者の金言を思い起こすべきだと云いたい。要はくだらない「解説」などは捨てて、ジョン・レノンが歌舞伎でしたように、自分なりの感性で、まず対象となる芸術と、素っ裸な心でぶち当たってみることである。佐藤


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2001.2.6