鳥は鳥らしく

 
京都鴨川雑感

 


“人間らしく”や”子供らしく”という言い方があるのは知っていたが、“鳥(とり)らしく”という表現は考えたこともなかった。京都の鴨川の川縁(かわべり)を散策しながら、京都の鳥たちを見て、まさに“鳥は鳥らしくある”と感じた。

まず京都の鳥はおどおどしたところがない。人間などまったく怖れていない風情(ふぜい)だ。この川は自分の川だと、言わんばかりに堂々としている。まず初めに見たのは鴨だった。10mほど水面(みなも)を羽ばたいて、また泳ぎ出す。実に自然で、この一時の生を楽しんでいるように見えた。次につがいの白鷺(しらさぎ)たちに出会った。二羽の白鷺は、羽を雄々しく拡げて、求愛の舞を舞っているようだった。次に鴨川の川下から黒い大きな烏(からす)が、夕暮れに赤く染まる川面すれすれに、飛び去っていった…。その悠然とした姿に、普段見ているカラスとはまるで違う聖なる存在を感じた。

この鴨川の側には、下鴨神社がある。この川を遡(さかのぼ)ると、上賀茂神社に行き着く。もしかしたら先の烏は、この二つの神社を結ぶ「神使(かむつかい=神の使いのこと)」だったかもしれない。

では我々が、普段東京で見ているカラスや野鳥とは、いったいなんなのだろう。おそらく東京の人間の接触の仕方が、鳥や自然を邪険(じゃけん)にしているため、あのような極端に人間を怖れ、楯突くようになったと考えるべきだ。つまり不良のカラスやハトができたのは、東京の人間の接触の仕方にこそ問題があったのである。

周知のように京都は、川と山を中心にして造られた都である。川は人間だけのためにあるのではない。そこには魚が泳ぎ、その魚を餌とする鳥たちの楽園でもある。同時に山には、木があり、木の実がなり、その実を食べる猿や鹿、野鳥などの住処でもある。しかも古来より日本人は、それらの動物たちを、時には「神使」として大切にしてきたのである。鳥や獣だって、千年も二千年も大切にされてくれば、その存在自体が尊く神聖に見えるのも当然かもしれない。

京都で見れば、東京では嫌われ者のカラスだって、烏と書かれ、神使となり、まるで別の神聖な生き物と化してしまう。このように京都という街は、実に不思議な街だ。京都には、日本人が古来から持っていたもので、失いつつある何かを、確固として保持している気がする。それを一言で表現すれば、伝統となるのだろうか?!確かに京都には古い日本がある。

あなたも鴨川を歩けば哲学者になれるカモ?佐藤

 


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1999.5.17