屋久島の土を踏めなかったこと
-西郷さんの嘆きを聴く-
佐藤弘弥

 

1 錦江湾

「何故なんだろう?」と、このところ、ずっと考え続けていることがある。それは鹿児島まで行ったにも関わらず、天候不良で屋久島ツアーが中止になったことだ。むろん天候が悪かったというしかないのだが、その深い意味を知りたいという思いが募っている。
 

2003年10月12日。私は、樹齢七千年の縄文杉に会いたいと、屋久島ツアーに参加した。ところが鹿児島まで行って、悪天候によって、高速フェリーが運行できずに、東京に引き返せざるを得なかった。いったい何故屋久島に渡れなかったのか。

10月12日の日曜日の東京は、未明から、バケツをひっくり返したような大雨が降っていた。何とか所定の時刻の7時過ぎに羽田に辿り着くと、8時のJAS便で一路鹿児島に向かった。

縄文の神杉(かみ)に会はぬと大雨の羽田を飛べば夢心地せり

一時間四〇分ほどの時間で、飛行機は鹿児島空港に着いた。外に出ると地面は濡れていたが、青空が顔を出していた。雨が上がったばかりのようだ。まるでハワイに降り立ったような清々しさだった。いい旅になりそうだ。そんな気がした。バスに乗って、しばし鹿児島観光に華やいだ気分に包まれていた。海岸通りを城山公園の方に向かって国道10号線を行くと、錦江港(きんこうわん)の彼方に、桜島が悠然と構えていた。頂きには、雲の大きな帽子を乗せている。

バスの車窓から錦江湾越しに桜島を望む
(バスの窓がフィルターとなって青っぽく写ってしまった)

錦江湾に映る寒月ゆらゆらと西郷どんの嘆き伝へぬ
海知るや西郷さんの悲しみのどこまで深きものなるものか



ふと思った。「ああ、あれが日本初の新婚旅行と言われる龍馬とおりょうさんが登った桜島なのか・・・」
ガイドさんの話では、昨日この付近では、黒い雨が降ったという。鹿児島弁で火山灰は「へ」というらしいが、鹿児島の人々は、活火山「桜島」を誇りとしながらも、一方では、いつ知れぬ火山灰の被害にもめげず、この土地に太古の時代から暮らしているのである。昔は、この付近に、薩摩隼人と言われる人々が暮らしていた。勇猛で知られる彼らの気性は、今現在でも鹿児島の人々に受け継がれている気がする。

悠然と海に坐したる桜島に龍馬おりょうの影浮かびたり

そんな中で、明治維新の英雄として名高い西郷さん(隆盛。吉之介。号は南州。1827-1877)は、やはり島津の殿様よりも、人気の高い人物のようだ。島津の殿様は、後にこの地に移って来た一族だろう。だが西郷さんは、やはりその風貌から体格からして、薩摩隼人そのものという土着的な雰囲気がある。西郷さんを思いながら、ぼんやり錦江湾を見ていると、バスガイドが、「間もなく、西郷さんが海に飛び込んだ場所に差し掛かります」と西郷さんの心中事件を説明しだした。

心中と言っても、この事件は、色恋の心中事件ではない。幕府の大老井伊直弼によって引きおこされた安政の大獄に絡んでのことだった。幕府の追手の目を避け、京都から月照和尚(京都清水寺の住職で尊皇攘夷派?)と共に薩摩に逃げて来た西郷さんだったが、藩は「月照和尚を匿って欲しい」との西郷さんの願いをついに聞き入れなかった。原因は、西郷さんを登用してくれた名君の島津斉彬(1809-1858)公が急逝し、藩主が代わったことだった。もしも薩摩藩から追放となれば、和尚は投獄され、死罪になる可能性が高い。何かつけて歯に衣着せぬ言辞を弄し行動する西郷さんを新藩主茂久とその後見の久光は、快く思わなかった。結局、西郷さんは、面目を施せず和尚を助けることができないとして、入水し共に果てる道を選んだのである。

決行の日は、安政五年(1858)11月16日で、丁度満月の夜であった。浜辺から屋形船に乗った西郷さん(32歳)と月照和尚は、錦江湾にこぎ出すと、酒を酌み交わした後、丁度中天に満月が懸かる頃、大崎ケ鼻沖に連れだって飛び込んだのであった。

金色の月の出で来し海原に死なむと酒酌む男児はふたり

その時、西郷さん自身次のような辞世の歌を詠んでいる。

  ふたつなき道にこの身を捨て小舟波たたばとて風ふかばとて
  (解釈:ふたつとないわが命をこの海の道に小舟のように捨ててしまおう。たとえ波が立ち風が強くとも。波の間に間には、我らふたつの骸が漂うことだろうよ。)

ガイドが、「丁度あの辺りでしょうか」と言いながら、ふたりが身投げを試みた辺りに差し掛かった。少しして、道路の脇に西郷隆盛蘇生の家という小さな小屋が建っていた。茅葺きの本当に瀟洒(しょうしゃ)な建物だ。何か強い印象があった。すると外の天気が一変した。急に空がかき曇ったかと思えば、パラパラと雨が落ちてきた。

驚きは「蘇生の家」の小さくて西郷どんのはみ出さぬかと
 

やはり人間は、自分が為すべきことを為し終えなければ死ねないものなのだ。数日後、海から助け上げられた西郷さんは蘇生した。しかし月照和尚は亡くなられた。何たる運命のいたずらだろう。心根の優しい西郷さんは、月照和尚に申し訳なくて、針のムシロに坐らされるような思いだったに違いない。この苦しみから、天の意志ということを西郷さんは考えるようになった。もしかしたら、自分は天によって活かされているのではないかと感じたのだ。

英傑は滅多なことで死ねぬもの錦江湾の波静かなり
 

西郷さんをその後も容赦なく試練が襲った。奄美大島に送られた西郷さんは、三年半に渡り、この島で過ごした。その後、一度、盟友の大久保利通などの尽力によって、再登用された西郷さんだったが、藩主に疎まれ、今度は極悪人同様に沖永良部島(おきのえらぶじま)の獄舎に繋がれてしまう。しかし天命というものを意識しだした人間西郷さんにとって、自分から死を選ぶようことは考えなくなっていた。

天は、西郷さんを幾度も試し、ついに彼にひとつの使命を与えたのである。それは長い鎖国によって、世界の文明から取り残された国家日本を救うことであった。時代は、西郷さんを必要とした。そして西郷さんは、ついに薩摩藩の実質的なリーダーとなって、戊辰戦争(1868)などの混乱を主導し、ついには徳川の重臣勝海舟と渡り合い、江戸城を無血開城させることに成功したのである。

西郷さんは、こうして日本を古い鎖国と封建制度のしがらみから解き放つことに成功した。まさに西郷さんは、日本の封建制度を打ち破り、新しい世を作るために天が使わした人物だった。だからこそ天は、自殺を試みた西郷さんの軽はずみな思いを許さず、江戸末期の日本に帰れと、西郷さんを蘇生させたことになる。人智の及ばぬものが天の為すことにはある。バスの窓越しに静かな錦江湾を眺めながら、西郷さんが座右の銘としてという「敬天愛人」(天を敬い人を愛する)の意味が心に染み渡るように響いてくるのを感じた。

海を背に錦江湾の波間にぞ西郷どんの声聞かむとす
 

2 仙厳園

ほどなく、仙厳園という壮大な庭園に着く。しとしとと雨が降っている。本来は屋久島ツアーの最終日に訪れるはずだったが、屋久島フェリーが遅れているということで、急きょ組まれたものだ。本来、仙厳園は、島津藩の別邸であった。桜島を築山として錦江湾を池に見立てるという壮大な借景を持つ庭園である。

仙厳園から桜島を拝む

磯庭園を傘の花行く彼方には雲を頂く桜島山
磯庭園に傘の花咲く彼方には薩摩隼人の神御坐します



庭園の入口を入るといきなり、アームストロング式の大砲が置いてあって驚いた。何かと思い、近くの案内版を見れば、明治の名君島津斉彬公が、アヘン戦争で中国がイギリスに敗北したことに驚き、軍備の近代化のために西洋式の大砲を鋳造したのだと記されている。260年の惰眠をむさぼっていた日本は、明治維新という不可避の大変革を通じてしか、もはや一歩も前に進むことが出来なかった。この大砲を見るにつけ、武器の象徴というよりは、明治維新の原動力となった薩摩人の気骨の一端を覗いた気がした。

徳川の惰眠を醒ます象徴と黙って島津の大砲見つむ

正門の正面に島津藩の○に十字の家紋を見つけた。私は、この家紋にイエズス会のフランシスコ・ザビエル(1506-1552)が薩摩にもたらしたキリスト教の影響を強く感じた。日本で一番早く、キリスト教というものを知ったのは薩摩の人間であった。キリスト教の布教活動は、ザビエルのような優れた宗教家によって、世界に広まった。おそらくこの家紋には、様々な薩摩の人々の思いが秘められているに違いない。

かつて日本中に広まったキリスト教は、徳川家康によるキリシタンの禁制(1612)によって、禁止されることになった。宣教師、キリシタン大名の国外追放など情け容赦のない弾圧によって、キリストの教えに心から心酔する人々は、己の宗教を封印するしかなかったのである。己が信じる宗教を禁じられたキリシタンの人々は、九州長崎の島原において、島原の乱(1637-1638)を起こした。圧政に苦しめられた人々は、キリストの名を叫び、命を賭けて戦った。想像以上の抵抗に、江戸幕府は脅威を感じた。その結果、九州の諸藩を総動員し、さらに日本中からも鎮圧部隊を島原に集めて、その数は十二万にも及んだ。この中には、あの宮本武蔵もいたということが言われている。

訳もなく島津の家紋に島原の悲劇を思へば雨強まりし

おそらくこの鎮圧には、自分がキリシタンという立場の人間も当然いただろう。おそらく、島津藩から派遣された武者の中にも、キリシタンであった人間がいたはずだ。その時、マリアとキリストの名と十字架をもって戦うキリシタンの人物を殺害しなければならなかった彼らの心境は想像しただけでも心が暗くなってしまう。正史には、けっして描かれていないが、歴史の裏側では、悲劇的なドラマがあちこちであったに相違ない。

歴史とは悲しきものぞ正史には「キリシタン禁制」とのみ記されゐて

正門を過ぎて奥に進むと、君主だけが通ることを許されていたという朱塗りの錫門を通って磯御殿の前に立った。ここは明治維新後の島津家の人々の生活の拠点となった場所である。近くには大きなごよう松が枝を四方に伸ばしている。庭の端に目を移すと巨大な石の台座の上に、ウサギが月に向かって吠えているような形状の不思議な石像が置かれていた。実はこれは獅子の像だというのだが、私には、何かを必死で天に訴えているウサギにしか見えないのである。またこの付近から見る桜島は絶景だった。さらに山から流れる保津川に架かる橋から遠くの山の岩場に「千尋厳」という字が白く浮いているのが見えた。数百年前に足場を組み、数ヶ月かけて書いたということだが、お世辞にも美意識を感じさせるものではなかった。橋を渡り、少し行くと池が掘ってあるのだが、そこの淵の岩に赤い磯蟹が居た。カメラを向けると、こちらに背を向けず、目をそらさずに、後ずさりしながら自分の巣穴に逃げ込んでいった。

蟹さえも薩摩隼人か背を向けず目を反らさずに巣穴に消ゆる
 
 

3 城山公園

仙厳園を出て城山公園に向かった。空模様はますます雲ってきており、今にも嵐が起きそうな気配となった。観光バスは、石垣ばかりとなった鶴丸城の掘を左に見ながら、ゆっくりと城山公園に向った。城山は標高にして107mほどの小高い里山と行った風情の山である。南北朝の時代には、軍事上の要衝の地として、上山氏の館が築かれていたという。植生も豊かで、クスの大木やシダ・サンゴ樹など、600種以上の亜熱帯樹が自生している。実に緑豊かな山だ。

城山からの桜島の眺望

言葉なし縄文弥生の太古より煙(けぶり)天まで桜島山



その途中に、西郷さんが、西南戦争の折に、官軍に追われて、最後の5日間を過ごしたという西郷洞窟があった。ふたつの穴がメガネのように並んでいる。この辺りから坂は更に急になり、道幅が狭くなっている。西郷さんの最期を思うと切なくなった。

明治六年(1873)、明治維新の最大の功労者たる西郷さんは、新政府内での「朝鮮遣使問題」の意見対立から、故郷の薩摩に戻ってしまう。ここが西郷さんの西郷さんたる所以(ゆえん)なのだが、もう政治はウンザリとばかり、故郷の薩摩に返って、野山を耕して悠々自適に暮らそうとした。故郷に戻った西郷さんは、山野を耕す一方で、私財をなげうち、私学校を作り、藩内の若者を教育しようとした。だが、ここに学んでいた若き士族たちは、自分たちを蔑(ないがし)ろにしていると、明治新政府に不満を募らせていた。そして反乱(西南の役)が勃発。西郷さんは、反乱軍の象徴として担がれてしまった。この時、西郷さんは、自分の身を若者たちに「くれてやろう」と言ったという。

戦局は、一進一退を繰り返したが、物量に勝る官軍に、西郷軍は、次第に追いつめられ、故郷の薩摩に帰還し、この洞窟に立て籠もるしかなかったのである。この洞窟に隠れた西郷さんは、五日間をこの洞窟で過ごした。中では悠然と碁をうち、冗談を交わし、読書をして過ごしたと言われている。

城山の小さき窟(いわや)に身を潜め囲碁せし人の胆力を思ふ

1877年9月24日早朝、官軍の総攻撃が開始された。死期を悟った西郷さんは、意を決して、応戦。城山の麓にある官軍の包囲網を突破する作戦を試みた。もちろん40名足らずとなった西郷軍に勝ち目はない。玉砕覚悟の出撃であった。300mばかり前進したところで、流れ弾を受けた西郷さんは、「もうこの辺でよか」と仲間に声を掛け、自らで命を絶って亡くなった。今から126年前のことである。

西南戦争の首謀者に祭り上げられた西郷さんの心を私なりに斟酌(しんしゃく)すれば、月照和尚の時と同じく、自分の命を若き士族の義のために惜しみなくくれてやったことになるであろう。それにしても、何と心優しき人物だろう。他者のために自分のたったひとつしかない命を我が子にまんじゅうでも配るように惜しみなく与えてしまうのだ。

バスは城山の駐車場に着いた。時折、小粒の雨が、鬱蒼(うっそう)とした木陰の合間から落ちてくる。添乗員に聞けば、まだ屋久島フェリーは、運行する見通しが立たないとのことだ。眼前の錦江湾を見れば、さほど海は荒れている様子もない。もちろん錦江湾は内海だけに、ここから外海の荒れを判断はできないのだろう。

海荒れて雲に霞みし桜島眺めて屋久島フェリーを待てり

遠くに眼をやれば、桜島には、雲なのか、火山の煙なのか判然としない白いものが重くたれ込めている。それでも実に端正な美しさに溢れた景色が拡がっていた。何度かカメラのシャッターを押した。シャッターを押すたびに、鳶が、「ピーヒュルルー」と鳴きながら、カメラの前を飛び過ぎて行った。

「わが命くれてやろう」と言う人の故郷の山に立てば鳶鳴く
 

5 フェリー・ターミナル

あっという間に、時が過ぎ、城山を離れることになった。風は強くなり、雲行きはますます怪しくなっている。外海は、相当に荒れているのだろう。添乗員から、こんな話があった。

「まだフェリーは運行していません。取りあえず、これからフェリーターミナルまで参りまして、待機したいと思いますが、最悪の場合は、本ツアー中止となる場合もございますので、その時はご承知ください。」

バスの中は、一瞬静まり返ったが、そこはやはり日本人である。天候ならば仕方がないという雰囲気になった。バスは、坂道を下りはじめた。再び西郷洞窟を通り過ぎ、西南の役の激戦で銃弾の痕も生々しい鶴丸城を後にして、西郷さんが若い青年のためにと創設した「私学校」の跡に差し掛かる。そこには立派な石造りの建物が建っていて、「かごしま県民交流センター」と記されていた。

石垣のあちこち見ゆる西南の役の名残の弾丸の痕

車中で、昼食の弁当が配られた。フェリーポートの駐車場で、弁当を拡げ、フェリーの到着を待つことになった。食事を終えて、フェリーポートの待合室に行くと、同じくフェリーの到着を待っている人が、疲れた表情で、腰を掛けていた。外に出ると、台風時のように雲が低空を流れてゆく。万国旗が風にはためいていた。風が想像以上に強いようだ。添乗員の話では、「戻って来れない屋久島ツアーの連中が、屋久島で缶詰になっている状況」だという。そうなると今日、屋久島に渡ったとしても、私たちもホテルで立ち往生してしまうだろう。そうすると縄文杉には到底会えないことになる。

沈黙のうちに数十分が過ぎ、添乗員が申し訳なさそうに言った。
「皆さん、フェリーが欠航となりました。せっかくツアーに参加いただいたのですが、ツアーそのものを中止させていただくことになりました。このまま、鹿児島空港に行って3時半の飛行機で、羽田に戻りたいと思います。」

ツアーに参加した人たちは一組の初老のご夫婦を除いて全員承諾した。ふたりは、JR鹿児島駅で、バスにいる私たちにペコリと頭を下げて遠ざかった。このまま鹿児島市内観光に切り替えるなど様々な選択肢はあると思うが、何ヶ月も前から、10月には、屋久島に行って、「縄文杉を拝む」という気持ちでいただけに、簡単に、こっちが駄目だから、あっちという訳には行かない。何も考えられないのだ。

空港の売店で、いも焼酎の新酒を一本購入し、羽田行きのJASに乗った。飛び立つと飛行機は、高度を1万mに上げたが、この高さにまで分厚い雨雲の層があった。飛び立って、少しして雲間から虹が、眼下に見えた。

雲間から虹顔見せて屋久島を踏まずに帰る吾を慰む

人生とは不思議なものである。長年会いたいと思っていた縄文杉を拝むことはならなかった。屋久島はやはり神の棲む島である。「佐藤よ、お前はまだこの地を踏んではならん」そう言われているのかもしれない。

結局、屋久島には行けなかったが、僅か百数十年前に、鹿児島の地に生を受け、惰眠をむさぼる日本人の目を醒まさせた西郷隆盛という人物に会えた気がした。西郷さんは、明治維新の最大の功労者だが、西南の役で大いに誤解されている。西郷さんの無念は今だ晴れていない。この地に立ってつくづくそう感じた。その時、ふと先ほど磯庭園でみた獅子の像のことが浮かんだ。何かを天に向かって必死で訴えているようなあの像の獅子とは、獅子となりきれなかった西郷隆盛その人ではなかったのか。もちろんこの像の作者など細かいことは分からないが、実際に見た瞬間に感じた強い印象は、今も脳裏に焼き付いて離れない・・・。

磯御殿前にある獅子乗大石燈籠

天仰ぎ何を祈るや石の獅子どこか似ている西郷さんに



薩摩に生まれた人が、西郷さんという人物を島津の殿様以上に誇りとするのは心情的に理解できる。西郷さんの自己犠牲の精神と深く人間を愛する精神は、日本的美徳の枠を遙かにはみ出して、広く世界に通じるものであった。そのことは敬虔なキリスト者であった内村鑑三(1861-1930)が、世界に向けて日本及び日本人を紹介した名著「代表的日本人」のトップとして「新日本の創始者」と西郷さんを紹介していることからも分かるというものだ。まさに西郷さんの人間愛は、世界精神に通じる普遍的なものだった。おさらく西郷隆盛という人物は、その世界精神たる天が、惰眠を貪る日本国民を目覚めるために遣わした天使だったに違いない。それにしても西郷さんは、日本という小さな国家に、収まりきれないスケールをもった大人物であった・・・。

縄文の杉に会へずに西郷どんに逢って鹿児島離れむとする
 

最後に、内村鑑三が、引用した西郷さんの詩を鑑賞し、屋久島ツアーならぬ薩摩の小旅行の思い出を締め括ろう。

地は高く、山は深く
夜は静かに
人の声は聞こえず
ただ空をみつめるのみ
 (「代表的日本人」岩波文庫 鈴木範久訳 1995年7月刊)

 



2003.10.16
2003.10.21 Hsato

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