じ然の思想を持って

−地球はコップの中に咲いた花−


 
地球のダイナミズムには恐れ入りばかりだ。

恐竜の絶滅が、6500万年前にメキシコのユカタン半島に落ちた隕石によるものだ、というのが、定説化しつつある昨今、実はその前の2億5千万年前にも隕石が落下したことを証明する痕跡が、日本や中国、ハンガリーなどで発見され、注目を集めている。これは23日、アメリカのロチェスター大の研究者らがアメリカの科学雑誌「サイエンス」誌に発表した説である。何とその衝突によって、海中生物の90%が陸上動物の70%が絶滅したと見られている。

最近では、ロシアの宇宙ステーションミールが、日本に落下するという話で、怖い危ないと騒いでいる向きもあるが、隕石の衝突と比べれば、ずいぶんと可愛らしい話だ。宇宙規模の感覚で言えば、いつ地球に隕石が落下し、人類絶滅の日がこないとも限らないのである。こんなことを考えると、一坪何百万もする土地を買い、僅かな狭い土地を、「これはワシのもの」とばかりに高い塀を築いて、喜んでいるどころではない。

どんなに威張って見たところで、隕石衝突でもあれば所詮地球の土塊(つちくれ)に戻るだけの話だ。そう言えば、シェークスピアの「ハムレット」の中で、土中から、しゃれこうべを探り出して、こいつは法律家だった、こいつは高利貸し、と品定めをするシーンがあったように思う。

人間の短い一生の中で、感じることは、真理をついているように見えて実は何も分かっていないということにもなる。つまり自然というものは、いつも変わらずそこにあるのではない。人間が死んで、居なくなるごとく、自然もさらには地球自体も限られた時間を旅する時間旅行者に過ぎないのである。これを仏教の言葉で言えば、無常ということになるが、人生はおおむね平安で、いつも自然はそこにあり、永遠に地球は美しくあるということが宇宙の規模で考えれば、瞬きの間にも満たない一辺の真理でしかないのである。

聖書の中で、神が地球に人間を創造し、万物を従え、この地上に満ちなさいと云ったのは、実は人間の夢の中でも願望に過ぎなかった。いや人間の無意識が人間の横暴を正当化するためにそのように思いこんで来たのである。残念ながら、地球というものは、小さなコップの中に咲いた花のような悲しく哀れな存在なのである。

しかし私は、ここで刹那な気持ちになっているわけではない。問題はここからなのである。人間には、想像力というものがある。想像してごらん。とジョンレノンは云ったが、我々も地球が小さなか弱い花だからこそ美しい、あるいは限りある地球だからこそいい、と想像することにしよう。するとみんながこの地球を大切にしなければならないという発想がそこに生まれてくるはずだ。

同じく人間も、たかだた百年も生きられない人類だからこそいい、と思うことだ。そうすれば自然に生きうる限り、精一杯に努力しなければならないという自然な思想に辿り着くことができる。すると不思議だが、たとえ隕石が、今地球を襲おうとも、じたばたせずに生きることができるような気持ちになってくる。これを自然(じねん)の思想と名付けてみよう。佐藤


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2001.2.26