自己とは何か

−免疫系の自己・カルマとしての自己−


 
朝目覚めると、鼻が詰まっていた。完全に花粉症の症状だ。これは自分の中にある「免疫系」が、花粉を敵と見なして、攻撃をし始めたことになる。いったい自己とは何なのか。

免疫系は、自分の中にあるもう一つの自分のようである。しかもこの自分は、自分の意志とは、関わりないところで、自分勝手に、自己と非自己を容赦なく識別する。私の免疫系が、花粉を非自己と認識し、過剰に働く為に、鼻が出て、頭が痛くなる。免疫系を、もっと分かり易くいえば、敵・味方の識別のシステムということができる。

免疫学の権威である多田富雄氏は、これを超(スーパー)システムと呼んでおられる。免疫系の自己認識の特徴は、初めから明確に自己と非自己を認識するシステムとしてあるのではなく、例えば我々の前に偶然に出会った花粉のようなものを媒介として、自己と非自己をその都度考えながら認識していくような曖昧なシステムであるという点だ。だから一旦、花粉を自己と認識した場合は、我々の免疫系は、花粉を吸飲しても、何等反応を起こさずに、共存していくことになるのである。

さてここからが今日の本題である。免疫系というものは、自分の意志とは関わりないところで働いている「自己」認識システムである。考えてみれば、この免疫系働きは、人間の「業」というものと何やら似たところがある。どちらも表層的な自分の意志では、抑えきれないところで働いているからだ。

よく、「人はあの人は業が深い」とか「業を晒す」等という使い方をする。要するに、何度も繰り返してしまうような原因不明の人のどちらかと言えば、否定的な行いについて、使用する言葉である。最近、テレビで自分の亭主の浮気癖を「病気」と言い切ったタレントがいたが。 確かに繰り返される浮気などは、「業」の本質を突いた行為と云えるかもしれない。

「業」という用語は、元々仏教から来た言葉であり、それはよく聞く「カルマ」という言葉になる。カルマは、サンスクリット語で「行為」のことであり、厳密にいえば、単なる行動ではなく、身(体)・口(言葉)・意(心)によって、為された行為を指し、一種の種子のようなものと考えれば分かり易いかもしれない。

この行為(カルマ)よって撒かれた種子は、やがて成長し、実を結ぶことになる。良い実もあれば、悪い実もあり、そのことが因果応報なのである。仏教におけるカルマというものは、一旦それが撒かれたならば、自分自身で刈り取らなければ、未来永劫に続く「罪業」となり、その報いによってかかる病を「業病」と呼ぶ。

仏教には「業に沈む」という言葉があり、何度転生しても輪廻の輪によって、魂が浮かばれない様を指すのである。いったいこのカルマを解く方法があるのだろうか。大乗仏教的に云えば、このカルマを解くには、徳を積まなければならないとされるが、私はブッダが菩提樹の下で、やったように、カルマというものを徹底的に見つめることから始めなければと思う。

ブッダが瞑想の中で行ったことは、カルマを時間差を追ってひとつひとつ解きほぐすしていったことだ。自分は、何故王子として生まれたのか、そして何不自由なく生活をし、学問をし、老いること、病をすること、死すること、生きること、の意味を知らされることなく、これまで生きてきたのか、次々に思考を繰り返して行く中で、閃きが出た。閃きといっても、全部理解できたというものではなく、ニュートンが、リンゴを落ちる光景の中に、万有引力の法則を発見したように、大いなる「?」であった。手塚治虫の漫画の中に良く出てくる電球と云ってもいいかもしれない。ともかくこうしてブッダは悟りを得たのである。そして彼は、この世が苦で構成されており、その苦を滅する方法を、一瞬の中で考え出したのである。このように考えると、ブッダの悟りというものは、ほとんど思念の中で、浮かび上がってきた感覚である。しかしその感覚の中に、ブッダは非常なリアリティを感じた。

苦の正体が、実はたわいのない、ひとつの行為(カルマ)から発するものであることを知ったブッダは、あっけないこの世の真理というものに触れて、唖然とし、心がわき上がり、どきどきとした。みんなに伝えたいのだが、この感覚は、非常に微妙であり、頭の固い人間からすれば、何を訳の分からないことを言っている。苦行を放棄してついに狂ったか、とでも云われかねないものだった。そんなことを考えながら、ブッダはしばらく菩提樹の下に留まって、真理を知った喜びに浸っていたのである。

さてひとまず結論である。「自己とは何か」「自分とは誰か?」と云って見ても、それは自分が表層的に意識する「自己」、「自分」に過ぎず、それ以外にも、別の自分も多層に分かれて存在するものかもしれない、という存在のとしての「自己」の曖昧さであろうか。佐藤


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2001.3.05