白川静先生の最新小辞典

「常用字解」を買った

-聖書のように奥深く有難く何より面白い字源小辞典- 



本には、手にとって悩んで買う本と、表紙を見た瞬間に買う本がある。平凡社の「常用字解」という小辞典は、まさに、後者そのものの本である。

著者は、漢字学の巨人ともいうべき御年93歳の白川静氏。この辞書は、漢字の中から、「常用漢字」に限って、その字の成り立ちを分かり易く解説した小辞典である。

冒頭で、白川氏は、次のように書いている。
「戦後のわが国の国語教育政策は、漢字の字数とその音訓の用法を制限するという、誤った方向をもって出発した。わずかに千八百五十字の漢字と、その限られた音訓とによって、国民のことばの生活をすべて規制しかねないものであり、それが直ちに伝統的な文化との断絶に連なるものであることは、容易に予想することができたはずである。(中略)古典は軽視され、文化の伝統の上にも大きな障害があらわれてきている。古典語で詠まれる短歌が、おおむね現代仮名遣いで表記されるというような事態が日常化しているのである。殊にわが国のように、歴史も古く、多くのすぐれた古典を持つ民族にとって、その理解が失われ、受容の機会が狭められているということは、わが国の文化の継承の上からも、容易ならぬ事態というべきだろう。(後略)」

同感である。漢字が制限されたことは、多くの古典に表現されている日本文化の可能性の幅が狭まったことを意味しはしないか。喩えるならば、日本文化という大海の水が、常用漢字という字数制限によって大量に天空に蒸発してしまったようなものだ。その結果、日本語の可能性は、大幅に狭められた。日本語には、やたらと分かりやすさが強調され、NHKのアナウンサーの言葉が、標準語として喧伝されるようになった。このような日本語の画一化、平準化は、日本語の深まりを意味しないばかりか、日本語の文化としての多様な可能性を否定するものでしかない。

「美しい日本語」という言葉が、叫ばれるようになって久しい。しかし美しい日本語をしゃべる人は、年々減っている。テレビの氏素性もしれぬお笑い芸人の言葉が、流行語となり、ますますもって日本語からは美しさが失われている。

白川氏の学究の跡を、傍観しながら、ふと私は、そのお姿に仏教学の故中村元氏のことが浮かんだ。自己の学究に対する真摯な姿勢や厳しさは、お二人に共通するものだ。中村氏が「現代のブッダ」であったとすれば、白川氏は、「現代の孔子」ということになる。

この小辞典に、白川氏の肖像は、掲載されていないが、思わず、本に手を合わせていた。漢字一筋に学究の道を貫いて来たその姿には神々しさすら漂う。もちろん白川氏を神格化するつもりなど毛頭ない。漢字一筋の菩薩の道に敬意を表したいのである。漢字とは人間が超自然あるいは神というものと会話するために創った文化そのものである。考えてみれば、氏は、漢字の神が、この世に遣わした人物かもしれぬ。そうでなければ、白川氏が著した漢字研究の膨大な著作は説明がつかない。天は白川氏に漢字研究という使命を与えたのだろう。

日本人のみならず、漢字を使う人々は、白川氏の為した漢字の成り立ち解明の努力に敬意を払う必要がある。白川氏の主著に「字通」という画期的な辞書がある。この辞書は、漢和と古語辞書をひとつにしたような大著で、著者60年の学業のまさに集大成である。見出し漢字総数約は1万字、熟語数は、約22万語に及ぶ。

この分厚い本を前に、インタビューアーが言った。
「先生、どうしてこんな膨大な本が書けるんですか?」
すると先生は、「いやー、毎日、少しずつ書いていると、この位はどうってことありません。」とさらりと言われた。

不精で平凡日常に埋没しがちな、我々は、ただただ、その恩恵を受けるだけでいいのか。漢字という素晴らしい文化の復権をはかる意味でも、常用漢字の字数制限を取り払い、日本語の本来持っていた可能性の泉から水を汲むべきではないのか。この新たな白川氏の小辞典は、まさに漢字の聖書ともいえる奥深く、ありがたく、何よりもとても面白い本である。佐藤

 


2004.1.22
 

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