親子とは何か

−あるイワナ守り親子の物語−


 
ここに一枚の写真がある。
この写真を見て、あなたは何を感じるだろうか。この人物は、一体何をしているのか?

この人物は、陸奥の雪深い栗駒山麓のイワナ小屋で、生後20日余りのイワナの稚魚(15mmほど)に、初めての餌をあげているところである。餌をあげている人の名を数又貞夫氏と言う。イワナ守りとして日本で初めてイワナの養殖に成功した故数又一夫翁のご子息である。二代目イワナ守りということになろうか。

イワナという魚は、非常にデリケートな魚である。これまでイワナ養殖は、野生が強い上、水の関係などもあり、ほとんど不可能と思われていた。しかしただ一人、初代イワナ守りとなった故数又一夫翁だけは、イワナの養殖を男子の一生を賭けるに値する夢と考えた。そして1950年、翁は栗駒高原に入植。それから苦節19年を経て、ようやくその不可能と思われた夢を実現したのである。

それはまさに快挙であったが、イワナ養殖の成功は、偏にこの翁の情熱の賜物であったと言える。とにかく翁はイワナが大好きだった。イワナを心から愛した翁だからこそ、20年近い苦労もものともせずに、イワナ養殖の偉業を成し遂げることができたのである。翁が、1969年に日本で初めて成功した時、そのニュースは瞬く間に、日本中に知れ渡ることとなった。しかしイワナの養殖が、すぐにビジネスに直結したかとなると、そこにはまったく別の問題が存在していた。

考えてみれば、何故イワナなのか?経済原則だけで、言えば世の中には、もっとうまい話が沢山ある。1950年、栗駒山麓のに、不可能と思われたイワナ養殖の夢を抱いて、入植した翁は、まさにロマンの人だった。つまり氏は、イワナでビジネスを立ち上げるというよりは、ホンモノの木と森と水がなければ生存することの出来ないイワナという美しい魚を心から愛し、そのイワナと共に、この栗駒山で生きることを、自らの人生の目標とした人物であったのである。

初代一夫氏と二代目貞夫氏、実はこの親子にも、人には言えないような確執があったようだ。つまりはどこの家庭でもあるような父と子の執念が存在したのだ。その時、子は父の夢がまだ理解できなかった。そして子は東京を目指した。そこで彼はイワナとはまるで違う仕事である宝石の加工をする仕事に就き、修行に励む。むろんそこには男の意地もあっただろう。そして子は父と別の生き方を模索してみたいと真剣に思っていた。でも心の中では、常に苦労をしている親を一日も早く楽をさせたいと考えていたことも事実だった。

確かに、父は、画期的なイワナ養殖の技術を開発したにも関わらず名声ほどの、経済的成功を勝ち得るには至っていなかった。いつか子は、その父の苦労の意味が理解できる歳になった。そして、子は父に一言、「跡を継がせてください」と頭を下げた。1977年冬のことであった。

それから親子は、手に手を取ってイワナ養殖に全身全霊で取り組んだ。瞬く間に時は過ぎる。親子の努力は、実を結び、イワナ養殖の仕事は軌道に乗った。見事に父は子に、自らのイワナに賭ける思いを譲り渡して23年目の熱い夏の日(2000年8月26日)に、イワナ守り初代数又一夫翁は静に逝ったのであった・・・。

イワナの養殖とは、何か?それは単なる男のロマンでは片付けられない大変な職業である。何しろ相手は自然そのものである。数年前には、台風によって、イワナたちが流され、壊滅的な打撃を受けたこともある。それでもこのイワナを心から愛する親子の絆は、強く結ばれ、決して揺らぐことはなかった。

今、世のなかでは家庭崩壊が叫ばれている。それは親子の関係の危機と言い換えることができる。
そんな中で、父の遺志を受け継ぎ、父が切り開いたイワナ養殖の道を、真っ直ぐに歩いて行こうとする子の貞夫氏は、実に親孝行な人物ということができる。

そして今日も又イワナ守り二代目貞夫氏は、イワナの親として、ストーブもない、寒いイワナ小屋の中で、今日も9万匹のイワナの子たちに餌をやり続けているのである。数又一夫翁と貞夫氏は、もちろん親子であるが、私はイワナ守り数又親子とイワナたちもまた、親子であると思う。どうであろうか?佐藤


    イワナ守り二代目数又貞夫氏に捧ぐ歌五首

イワナ守り数又翁の遺志は又その子受け継ぎ未来に通ず
何処より命は来たりイワナの稚魚(こ)命育む水の冷たさ 
その子らは栗駒山に冬銀河流るる如く生れ出づるなり
奥山の暖なき小屋に一人居て稚魚守る人の手の暖かさ
ねんごろの餌付け餌付けをくり返し子は守る人を親と思ふなり



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2001.1.23