一ノ谷合戦の日に思う

 

今日、2月7日は、一ノ谷合戦の日である。

今から八一六年前の寿永三年二月七日、源氏と平家は雌雄を決するために、現在の兵庫県神戸市に近い一ノ谷に集合した。その兵士の数は、両軍合わせて、三万とも五万とも言われる。周知のようにこの一ノ谷合戦は、結果として、源義経率いる源氏方が、平家方に決定的な打撃を与えた歴史的な戦となった。時に義経二六歳の若き大将であった。

思えば、この一ノ谷合戦で、鵯越(ひよどりごえ)をするなどという義経の人の想像力は、軍略の定石(セオリー)を超えた感がする。傍目から見れば、意表を突いた作戦であり、一見無謀にも思えるくらいだ。ところが義経には、確信近い勝算があったといわれる。

義経が、何故このような奇策を企てたかと言えば、それは義経自身が、この一ノ谷の合戦を、源平合戦の正念場になると確信していたからに違いない。当然平家方も同じことを考えていた。平家方は、宇治川の戦でも敗れており、もしもここで平家方が敗れるようなことがあれば、再起は不可能とまで考えていたはずだ。

そこで平家は、自軍を崖を背後に置いて一の谷に陣を構えた。つまり平家も必死の覚悟で義経率いる源氏軍を迎え撃とうとしていた。そこへ義経は、闇に紛れながら僅か50騎の精鋭部隊を引き連れ、とても人馬が通れないと思われた山道をつたって一ノ谷を真後ろから見下ろす場所に達したのであった。やがて夜が明け、戦が始まる。

義経はその攻防の様子を黙ってじっと見ている。眼下では、双方一進一退、五分の攻防が繰り広げられている。義経は敵味方の陣形じっと見ながら、何処へどのようなタイミングで切り込むかのタイミングを計っていた。そしてその時は来た。鵯越の坂を一気に逆落としに下って敵の背後から、その陣のまっただ中に飛び込んで行った。

その時の義経の下知(命令)の模様を源平盛衰記は、次のように描写している。

「守って時を移すべきにあらず。崖を落すには手綱あまたあり。馬に載るには一に心。二に手綱。三に鞭。四に鐙(あぶみ)」と云いて四の義あれども所詮は心を持ちて乗る物ぞ。若き殿腹は見も習へ、乗りも習へ、義経が馬の立て様を本にせよ」とて真逆(まさっかさま)に、「引向けつづけ、引向けつづけ」と下知しつつ、馬の尻足引敷かせて、流れ落ちに下したり」

上の文章を佐藤が意訳すると次のようになる。

義経は叫んだ。「守って時を移してはならない。この崖を下る手段はいくつかある。まず一には馬と一対になる心。二には手綱さばき、三は鞭、四は鐙だ。この四つの法があるが、しかし何と言っても、馬は心を持って乗るものだ。よいか、若き者達、この義経の手綱の取り方を、見て習え、乗って習え、義経が馬の首の立て方を手本とせよ」と言いながら、手綱で馬の首を引き、「さあ行くぞ、続け、さあ行くぞ、続け」と言いながら、馬の後ろ足を畳ませて、馬に尻を着かせ気味に、目の前の坂を、真っ逆様に下りていったのであった。

この馬で坂を下る技術は、論じれる立場にはないが、おそらくこの高等な馬術を義経は奥州平泉で学んでいたに違いない。義経がかつて、平泉から軍事訓練で通ったという伝説の残る栗駒山周辺では、至る所にこのような急斜面の坂が存在する。通常では不可能と思われるこのような奇策でも、義経の頭の中では、技術的な裏付けと周到な準備があったと考えるべきである。

平家の人間に限らず、人は誰でも、思わぬ所から攻撃されたり、機先を征せられたりすると、普段の力を発揮できずに、固まってしまうものである。

この義経の奇策により、平家方には、たちまち動揺が走り、陣形に大混乱が生じた。五分だった形成は、一挙に変化し、勝負は、その後2時間余りで決してしまった。平家の大敗北であった。この一ノ谷の合戦は、義経の軍略の冴えと天才振りを遺憾なく示すと共に、日本という国家が古代から中世へと踏み出す契機となった歴史的な戦いであった。

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今日、一ノ谷の合戦にあたり、改めて源義経という人物のすごさを思いながら、同時にこの戦で命を亡くした有名無名の武者達の冥福を心から祈りたい。佐藤

 


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2000.2.7