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平泉中尊寺に伝わる
源義経公の肖像について
 

−洋画家村山直儀画伯インタビュー−



 1 「判官贔屓」の象徴のような肖像画
 

平泉の中尊寺に、源義経の肖像が遺されている。詳しい研究はなされておらず、江戸期に描かれたものと言われる以外は、余りよく分かっていない。
 

一般的に言えば歴史的人物や英雄の肖像というものは、時代によって、また民衆がその人物をどのような印章を持っているかによって、描かれる容貌というものは変容してくるものである。最近では、べートーベンの肖像が、どんどんドイツ的(ゲルマン的)な厳格さを持った表情に変容しつつあるというのは、有名な話である。またゲーテの肖像もドイツ民族を象徴する人物として、近年理想化されつつあり、私自身実際ドイツに行ったおり、ゲーテ館などを訪問し肌で感じたことである。フランスでもあのナポレオンの肖像が、実際の容貌から次第にかけ離れて理想化されつつあると聞く。

ところが、わが国の英雄の義経公だけは、昭和期に安田靫彦(やすだゆきひこ)画伯が「黄瀬川の陣」(1940年:東京国立近代美術館蔵)という屏風に義経公の若々しい肖像を描くまでは、中尊寺に伝わる臣下に何かを告げているような、失意の義経公の肖像しかなかったのである。(もちろんそれまでも、義経記などの軍記物の挿絵として、描かれてはいたが、肖像と言われるような絵は、遺されていなかった。)

考えてみれば、我々が子供の頃に教科書などで見た中尊寺の義経公の肖像は、江戸期に描かれたものと言われており、義経公が亡くなってから五百年も後に描かれたものということになる。この失意の肖像をしみじみと見ていると、西洋の肖像画に見る理想化の方向とは逆に、「判官贔屓」という日本人特有の心情の具現化というような気さえしてくるほどに哀しい全体的雰囲気を持つものだ。

これを言葉にすれば、五百年後に描かれたという義経公の肖像は、人物の英雄化でもなければ理想化ではなく、民衆の心情というフィルターによって、義経公の像が、贔屓されるようなイメージでどんどんと悲劇化されている、ということになるのである。

江戸の民衆の間では、歌舞伎の出し物でも「義経千本桜」や「勧進帳」などのいわゆる義経の悲劇的部分を誇張した出し物が大衆によって大受けを取っていた。やはり民衆は、義経の栄光の部分よりは、悲劇的な部分が好きだったようだ。つまり日本の義経を慕う民衆の間では、彼の悲劇のイメージこそが、光の部分であり、平家一門を討ち滅ぼす栄光の部分こそが影なのである。

その意味では、中尊寺に伝わる義経公の失意の肖像は、民衆の心にあるイメージを象徴しているものと考えられるのである。
 
 

 2 村山直儀画伯の伝源義経像の印象(インタビュー)

さて2001年7月下旬、この絵に興味を持たれた世界的な洋画家の村山直儀画伯が中尊寺を訪問された。中尊寺の佐々木邦世執事長に表敬訪問をした後、執事長の計らいで、村山画伯は、念願の義経公像との対面を果たされた。「どきどきしたよ」と、後に画伯は笑って居られたが、中尊寺讃衡蔵の地下に赴いた時の、画伯の眼は、真剣そのものだった。そして画伯は、額装された伝源義経公像と 約40分間、この絵を食い入るように見つめて居られた。その鋭い眼光は、この絵の奥にある何ものかに触れようとするかのような迫力に充ちていた。その迫力に押され、インタビューをするタイミングを計りかねていた私だったが、声をひそめ、画伯に以下のようなインタビューを試みた。画伯は、始め渋い表情をされていたが、しゃべり出すと、言葉を選びながらも熱を込めてインタビューに応じていただいた。当サイトに掲載するに当たっては、気持ちよく画伯のお許しをいただいたので、ここにその発言の一部を掲載させていただく運びとなった。
 

問1 先生この肖像画を見た全体的な感想をお聞かせ下さい。

 
−とても不思議な感じがします。というのは、全体的には、はっきり言って技法的にもそれほど優れたものを感じない。それどころか、稚拙な感じすらします。透明な薄物を描いた線にしても、近くで見ると、ちょっと不自然だ。この畳の縁だってどうですか。手抜きとは言わないが、気を入れて描いていないでしょう。でもね。この顔を見てください。とてもリアリティがある。画家というものは、思い入れが強い所があって、もしも想像で描いた場合は、少しでもいい顔に描こうとするものですよ。ところがこの義経公は、ちっともハンサムじゃない。それどころが、やつれ切っている。そこから考えると、これはモデルを見て描いた可能性が高いと思いますね。
問2 先生、ところが、この絵は、江戸時代の作と言われていますが・・・。
 
−もしそうだとすれば、下絵か、それに相当する絵があって、この絵の作者は、それを見て描いたということが考えられます。この絵と対になっていると言われる弁慶の絵は、まるで我々昭和一桁世代が、五条の橋の武蔵房弁慶そのもののような怪物の如き有様で描かれている。しかし義経公の肖像の方は、五条の橋で、弁慶の長刀をヒラリヒラリとやり過ごして家来にしてしまう牛若丸の颯爽とした所は、どこにもない。それどころか、今にも運命という魔物に翻弄されて、悲劇の最期を仕方なく受け入れてしまうような哀れさに充ち満ちている。つまりね、弁慶の絵が一切のリアリティがない絵なのに対して、この肖像は見た者でしか描けない凄みのようなものが感じられるのです。


問3 そう言えば、この絵には、署名がありませんが、この点どうですか?
 

−江戸時代のこのような肖像に、署名の習慣があったかどうか、はっきり知りませんので、あくまで画家としての私の立場で言わせて貰えば、下絵があったとすれば、当時の絵師が、やはり署名をすることはには、躊躇があったと思います。だって自分が描いたものではなく、下絵と言ったって、人の作品ですよ。少なくても、そのような絵に私は署名などできませんね。


問4 すると、元の作品は、どこに行ったのでしょう。
 

−きっと、破棄してしまったでしょうね。燃してしまって、永遠にこの絵しか残らないようにしたかもしれません。ただしこれは、その絵師にも良心があったでしょうから、秘かに何処かに眠っている可能性もないとは言えませんね。まあ私の義経公に対するロマンの感覚で言わせて頂ければ、ちゃんと何処かで大切に保存されていると思いたいですけどね。


問5 この絵の義経公と近い雰囲気の絵が、「東下り絵巻」として、中尊寺に伝わっていますが、それを下絵として、描いたとは考えられないでしょうか。
 

−確かに似ていると言われればそうなのですが、特に弁慶はそっくりの雰囲気でしたね。ただこの肖像のリアリティは特別だ。さっきの絵巻などまるで敵わない。ほらこの義経公の右の耳を見てください。柔道などをやった猛者の耳のような感じだ。上部が、刀かなにかで、傷ついている。剣術の稽古で、やったものかもしれない。想像ではこれは描けない。ですからね。私はこの肖像は、特別なものと思うのですよ。特に顔を描くことに異常なほどの神経を使っている。このほつれ毛の描き方を見てください。相当集中している感じだ。実際の義経公を見ている者じゃなきゃ描けないような凄みすら感じる。


問6 肖像で言えば、家康などは、武田の騎馬軍に三方ケ原で完膚無きまでに敗れた惨めな肖像を描かせて、生涯の自戒としたということですが、義経公が、自分の惨めな姿を描かせて、遺したなどとは考えられないでしょうか?
 

−さて、それは、見てきた訳ではないからお答えしかねるが、義経公ほどの武将なら、それ位のことはなさったかも知れませんね。


問7 私は、骨相学的にも、大きい顔に鼻梁が高いなどの特徴は、神護寺の伝源頼朝像に近い骨格を感じますね。今その頼朝公の肖像は、他の者の肖像ではないか、などという説が出ていますが、私は他の頼朝公の木像や肖像から見て、あれは紛れもない頼朝公だと思いますが、おそらくこの兄弟は、父義朝の顔の特徴を受け継いでいるのだと思います。やや口腔が前に出て、アゴが奥まっている点も良く似ています。口承では、義経公は色白で背が小さくて顔は大きめ歯が少し出ていたと言われますが、この口承を元にした想像ということはないでしょうか?
 

−なるほどね。そうかもしれません。ただこの絵は特別ですよ。この絵が、西洋画のように額装してあるのは、少し残念ですね。やはり掛け軸にして、欲しいですね。その上で、ガラスのケースかなにかで、しっかり保存して頂きたい。
問8 先生、では最後にこの絵について、一言御願いします。
 
−今日は中尊寺さんの計らいで、大変貴重な宝物を見せていただきましてありがとうございました。この絵の持つ不思議なリアリティに感動しました。

私は、この絵を鑑賞しながら、何の気なしに、ルーブルにある「モナリザ」を思い出してしまいました。あの絵は、実にリアリティのない絵です。つまりこの義経公の肖像画とは正反対の絵なんですね。あの絵には、様々な説がありますが、私は画家としての直感からあの絵にはモデルがいなかったのだと思っています。ダ・ビンチは、あの絵を生涯に渡って持ち歩きましたね。あれはモデルがなく、ああでもない、こうでもないと、加筆訂正しているうちに、最後まで完成されることなく手元に残ったものでしょう。画家にはそんな、後で完成させようとして、そばに置いている作品が、幾つかあるものです。でもこの義経公の肖像は違います。本物の義経公を見たものでなければ描けない何かがあるように見受けられます。


まとめ

村山直儀画伯のお話しされたことをまとめると、まず実際の義経公を映した下絵が中尊寺の何処かに坊に密かに伝わっていて、それが五百年近く経った江戸時代に発見されて、ある絵師によって、色づけされたか、別の紙に写された、ということになる。この辺りは専門家に調査を依頼すれば容易に解明されるであろう。ともかく、村山先生の鋭い感性によって、これまで、詳しい研究もなされず、ただ不遇をかこつ義経像として伝えられてきた「中尊寺伝源義経像」に新たな光りが射した感じがする。佐藤
 

 


2001.7.30

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