井深大の教育論

ソニーの創業者の隠れた素顔


 
 
ソニーの創業者井深大(いぶかまさる)さんが、知的障害児の親だったことは、ほとんど知られていない事実だ。1946年(昭和21年)の東京通信工業株式会社(ソニーの最初の社名)設立以来、仕事一筋に励んでいたため、家庭はほとんど奥さんに任せきりで、生まれたお嬢さんは、知的障害児だった。その為か、間もなく井深は離婚をしている。

彼の経済力からすれば、我が子の為に、専属のスタッフをつける位は訳のないことだった。しかし彼はそれをしなかった。知的障害児のための学校を見つけ、社会的に一人で生きていける人間に我が子をする道を選んだ。忙しい中をぬって父兄会にも積極的に参加し、その学校が資金面で息詰まれば、新たな障害児の学校設立にも積極的に関与し、資金面や人事の面で努力を惜しまなかった。

彼は教育の大切さを痛感し、1969年(昭和44年)幼児開発協会を設立し、自らその理事長に納まった。特に彼は、幼児・胎児教育の大切さを強調し、次のように言っている。

母親の役目は何にもまさる貴重なものです。母親こそ子どもをどんな人間にでも育てることができるのです。言葉をかえれば母親は偉大な芸術家であり、医者であり、牧師でもあります。そして何よりもすぐれた教育者であってほしいものです。母親は子どもを授かった瞬間からその子の人間形成にしかっりした目的意識を持ち、できるだけの環境を整えて子育てを実行することが大切なことと言えましょう。次の世代を担って立つ子どもたちがすぐれた人材に育つよう、世の中の母親一人ひとりに胎児から始まっている幼児教育の重要性をよく知ってほしいと思います

井深の教育の根幹は、今日の知識偏重の教育とはまったく、違うものである。彼の強調したことは、幼児の時期から始まる心の面の教育だった。彼の持論は「心は頭になんかない」ということだった。そして親たちには「育児教育ほど崇高で素晴らしい仕事はない」と説き続けたのであった。

やがて彼の娘も立派に成長し、ソニーが知的障害者を雇用する専門の工場「ソニー太陽」の食堂で働くようになった。そこで井深は、娘を特別には扱わなかった。あくまでもその工場に働く一人の労働者として、井深は陰から娘さんを見守り続けた。知的障害者の親の心配は、親が歳をとって、「この子の面倒をみれなくなったら、この子がどのように生きていくだろう」ということである。

井深はその答えを、自分のお嬢さんを一人の社会人として、見守ることでりっぱに示した。彼のお嬢さん(現在58歳)は、今も先の工場で元気に働いている。ある時、井深さんは、数も数えられない我が子が、みんなの食事の世話をてきぱきとこなしている姿を、そっと見た時、娘をかわいい、そして誇らしいと、と思ったと、述懐している。

誰もソニーが、知的障害者の為の工場を持っていることなど、知らないはずだ。このあたりがソニーが、単なる日本の中の大企業としてではなく、世界のソニーと言われる所以(ゆえん)なのである。つまり井深の精神を企業化したのがソニーなのである。この文化がある限り、ソニーという企業は、ますます発展するに違いない。

1997年12月19日、井深大は、天国に召された。享年89歳。見事な人生であった。井深の墓石には、戒名はなく、ただ井深大とあり、そしてその横に自由闊達(じゆうかったつ)という言葉が掘られている。もちろんこの言葉は、井深がソニーの設立趣意書に書いた次の言葉から採られている。

真面目なる技術者の技能を最高度に発揮せしむるべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」

この言葉の意味をよくよく噛みしめよう。ソニーだって、50年前は、20名足らずの品川の町工場に過ぎなかった…。佐藤

 


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1999.3.11