むかしをふり返りいったいあの騒ぎは何だったの?と思うことがある。昨今の「冬のソナタ・ブーム」を10年後あるいは20年後、日本人はどのようにふり返るのであろうか。人間はひとつの事に熱中すると周囲が見えなくなることがある。派手な格好のミュージシャンを追っかけるのは何も若者ばかりではない。最近では中高年の女性たちが、韓国のペ・ヨンジュンという男優を「ヨン様」などと呼んで「冬のソナタ」というドラマに夢中になっている。
いったいこれは社会現象としてどのように捉えたらいいのか。しばらく考え続けてみた。この「冬ソナ・ブーム」の背景には、このドラマのテーマである初恋(あるいは純愛)というものに対する郷愁がある。そもそも初恋というものは、甘酸っぱい記憶であり、たいがいは結ばれずに終わってしまうものだ。初恋をテーマにした小説の多くは、ツルゲーネフの「初恋」や伊藤左千夫の「野菊の墓」を読むまでもなく、若い恋人たちの間にのっぴきならぬ障害や邪魔が入って春に降る雪のように消えて行くのだ。 しばらく、日本のテレビは、このような初恋や純愛を正面から扱ったドラマを制作してこなかった。日本の最近のドラマの傾向は、「小洒落た」という言葉に集約されるような若者のチープで浅薄な価値観や彼らの文化ばかりに焦点を当て過ぎてきた。つまり年端の行った人間にとって、日本のドラマは、まったく受付不可能な状況にあった。その心の空白を突いて、「冬のソナタ」というドラマは、とくに日本の熟年女性のハートをしっかりと捉えてしまったのである。 「冬のソナタ」は、日本の熟年女性にとって、失われた青春への郷愁をかき立てる触媒のようである。テレビで雑誌編集者の残間里江子さんが、こんなことを語っていた。
初恋に関しては、誰でも自分なりにドラマチックな甘酸っぱい思い出を持っている。その感性を刺激する何かが、「冬のソナタ」という韓国製ドラマにはあるのだろう。 かといって「冬のソナタ」というドラマが、人間真理の深みを捉えている傑作ドラマとは思えない。私の感性からすれば、このドラマを観ていると、観ているこっちが恥ずかしくなる。あの作り物の涙と笑顔に歯の浮くようなセリフの洪水。背中がむず痒くなってきて、一分も正視することができないほどだ。はっきりと言ってしまえば作品論としては問題にならない。それでも、このようなドラマが日本の熟年女性に大受けして、空前の韓国ブームをもたらしていることは事実だ。そしてこの大ブームの背景には、日本のテレビが、余りに若者文化に迎合した駄目なドラマしか制作してこなかったという現実がある。日本のテレビメディアは、あのように臆面のなく、初恋(あるいは純愛)という普遍的なテーマをドラマにすることを忘れてしまった。その間隙をぬって、今回の冬ソナブームが生まれたのである。 もうひとつ、私の韓国人の友人から、このようなメールを貰った。
このメールを読みながら、つくづくと、日本と韓国の間には、深い溝があることを知らされた。日本語を流ちょうに話し、日本文化をよく知る知日派と呼ばれる人の間でも、依然として日本と日本文化に対する警戒感があるのである。そこでこんなメールを私も送った。 「確かにあなたの懸念は分かる。事実かもしれない。しかし今の世界の大きな動きを見た時、そんなことを言っている情勢だろうか。日本と韓国の間で重要なことは、世界政治経済体制がアメリカの一極支配から、EU(ヨーロッパ)との二極体制に大きく分かれてゆく過程にあって、第三極としてのアジア経済圏を樹立するその中心国になることではないのか。まだアジアには、自由貿易協定すらない。したがって私は『冬のソナタ』というドラマがもたらした波紋を受け止めつつ、もしもこのドラマが、日韓の人々の友好関係にプラスに作用するのであれば、これを肯定的に受け止めたい。」 さて最後に結論めいたことを書いて置くことにする。社会学的にみれば、「冬ソナ・ブーム」は、日本のテレビメディアが戦後どこかに置き忘れてきた普遍的な初恋というテーマを扱ったことで、日本人の特に熟年婦人層に強い共感を持って受け入れられた。それはある種の精神的郷愁(ノスタルジー)と言えるだろう。また冬ソナは、一部に懸念は残るが、日韓の文化交流に先鞭を付けたことは事実である。今後日本のテレビメディアは、冬ソナのヒットを教訓として、一部の世代の感覚に迎合した浅はかなドラマ作りを止めて、もっと普遍的なテーマを扱った骨太の作品を制作すべきである。
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2004.8.11