ムンクの不安

「叫び」にある不安


 

ここに二枚の絵がある。まるで違う画家の作品に見えるが、実は同じムンク(1863〜1944ノルウェー生まれ)の作品である。
ムンク作 叫び
一枚目は有名な「叫び」である。この作品は、人間の不安や恐怖心を描いていると言われ、心理学でもしばしば、テキストに使用されることも多い。もう一枚の作品は、ムンクにしムンク作 春の公園ては珍ては異様なほど明るい作品で「春の公園」という題が付けられている。モネやスーラの作と言われれば、そうか、と言いそうなイメージだ。

ムンクは、不安の芸術家と言われる。ムンクの生涯のテーマは、不安ということであった。人間の中にある不安をキャンバスに書き写した画家が、ムンクである。彼の代表作である「叫び」は人間の不安が極限に達した時の、一瞬を表現した作品である。

この作品については、はっきり言って美しいとはいえない。また心地良い作品でもない。ただやたらと心に残ることだけは確かだ。再び見たいとも思わない。むしろはっきりと「今日は見たくない」という気持ちにさせる時さえある。

確かにこの絵を観た後は、得体の知れない不安らしき感情が、呼び覚まされる感じがする、その時の我々の心の動きは、ムンクがこの作品によって表現しようとした時の心(不安)が、自分の現在の心と共鳴することによって、内部で眠っている不安がかき立てられるために起こると考えられる。このような無意識を含んだ一級の芸術作品の鑑賞は、我々凡人が、理屈で作品を考えても歯が立つようなものではない。むしろ己を虚しくして、このムンクの心と向き合うような気持ちが必要かも知れない。

では不安とは何だろう。確かに不安を持っていない人間はいない。仕事に対する不安からはじまって、家族に対する不安、老後の不安、病気の不安、生活の不安、何かを失う不安、等々、何かしらの不安が、人間の気持ちの中を支配している。もし少しも不安がない人間が存在するとしたら、その人間は、鼻持ちならないいやな人間としか言いようがない。

つまり不安は、人間の魅力のひとつでもある。適度な不安があるからこそ、その人物に影のようなものが出来て、その陰影が、人間を魅力的に見せるのである。しかし不安も度が過ぎると、精神が病気になってしまう。人間は、多少の不安があるからこそ、正常な日常生活を送っていられるのだ。不安もまた人間にとっては、必要なものなのである。

不安の本質には、人間の恐怖心が眠っている。人間一人一人の不安というものに強烈な光を当てて見れば、以外に、「なんだこんなことだったのか」ということが多いものだ。不安とは一種の暗がりのようなもので、明るいでは、単なる縄でも、暗がりで見れば、大嫌いな蛇に見えて飛び退いてしまうことにもなる。光の加減が以外に問題なのだ。例えば、光が多すぎて、陰影のない写真と、少し光の加減で、陰影をつけた写真では、はるかに陰影のある写真が、人をチャーミングに見せてくれる。

だから自分の心を強烈な不安が襲った時には、まず慌てないことだ。そしてその不安に向かって光を当ててみる。要は、じっくりと不安の中心部に光を当てることだ。すると自分が、蛇という不安に飲み込まれようとしているカエルではなく、縄に不安を感じていた自分に気がついておかしくなるのである。

ここに掲載したムンクの二つの絵を比べてみて感じることは、光の加減によって、まるでイメージが変わってしまうということである。叫びという絵に対して、「春の公園」と題された、この明るい絵は、まるで印象派の絵のように明るいタッチで実に心地よい。もしも仮にムンクがこれを「夕闇の公園」として、夕暮れを描いたとしたら、やはり我々見る側としては、間違いなく不安というものを感じてしまうに違いない。ある意味で、この二つの作品は、ムンクの二つの心理を端的に表しているに違いない。つまりムンクの生涯を覆い続けている大いなる不安とちょっぴりの希望。でもそれは明らかにムンクの心の地図であるかもしれない。

我々が抱いている漠然とした不安も、本当は実にたわいもないことだったりすることが多い。怖がらず、不安と向き合うこそが肝心だ。

不安には光を当てよ。そうすれば不安の闇は消える。佐藤
 


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1997.5.22