飽食日本社会点描

−豊かさのおこぼれ?−


 
日本の国民のほとんどが、森首相を見放している中で、堂々と首相を続けていられるのは、実に奇妙なな光景である。民主主義社会と云いながら、政治が民意を国政に反映しないまま、森政権がこのようにノホホンとしていられる日本という国家は、実は国家の体を成していないとさえ思えるほどだ。

確かエンゲルスだったか、「イギリスの労働者階級の状態」(1848年刊?)という論考の中で、「資本主義の高度に発展したイギリスにおいて、労働者階級の革命が、起きないのは、資本主義のおこぼれを頂戴しているからだ」という旨の発言をしていたと思う。

無政府状況に見える日本の中で、このように日本の社会が一見平穏で、その内実国民のストレスが頂点に達しているにも拘わらず何も起きないのは、19世紀中頃のイギリスと同じで、それ相応の蓄積した富のおこぼれを多少なりとも頂戴しているからであろう。これがもし極貧の国民ばかりであれば、市民革命がいつ起きても不思議はない。

最近週刊誌の中吊りで見たのだが、「森首相、戦前だったらクーデターですよ」というコピーを目にした。内容はもちろん見ていないが、ナルホド、と妙に納得した気分になった。このコピーの指す「戦前のクーデター」とは、5.15事件(1932年)や2.26事件(1936年)のことを云っているのであろう。確かにあの頃の、日本の特に農村部の極貧振りはひどかったようだ。要するにクーデターしか、極貧から抜け出す方向が見えなかったのかもしれない。もちろんあのような手段を選ばない暴力的な政治的示威行動が、現代において許されることはあってはならないが、青年たちの止むに止まれぬ正義感とその心情は痛いほど分かる。

それから、七十年近くが過ぎて、日本は根本から変わってしまった。社会システムも国民の生活信条も、正義感の感覚も、当時とは比べるべくもない変貌振りだ。その間あの悲惨な戦争を経て、日本人が手にしたものは、何だったのだろう。それは物質的な豊かさと、その反面というか、その見返りによって、去勢された道徳心と正義感だったのではなかろうか。
政治家は、去勢された国民を前に堂々と好き勝手な行動を取り、若者たちは、片手にケイタイ、一方にデートマニュアルを見ながら飽食に耽るばかりだ。

白けきった街を飢えた目をして「ギャー・ギャー」と、飛び回るのは、繁殖期を迎えた烏ばかりだ。誰が今の日本の新宿の街の活況を見て、この国がかつてない不況に見まわれていると認識できるだろう・・・。佐藤
 


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2001.3.08