方丈記を書いた男

 

方丈庵のレプリカ(河合神社)
 


京都の下鴨神社に入るとすぐ、鴨長明(かものちょうめい:1155〜1216)縁の河合神社というものが見えてくる。その中には、鴨長明が、晩年に住んだ方丈庵(ほうじょうあん)のレプリカが建てられている。

鴨長明と言えば、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし(すべてのものは、川の流れのように変化し、同じところにとどまっているものはない)」で知られる方丈記の作者である。

当の鴨長明自身は、京都の下鴨神社の宮司、鴨長継(かもながつぐ)の次男としてこの世に生を受けた。小さい頃から、和歌の道に優れた才能を示し、多くの歌を残している。長明は、父の跡を継いで、下鴨神社の宮司になることが子供の頃からの夢だった。ある意味で鴨長明は、完璧なエリートであり、将来を約束されたような人物であった。

しかし人の一生というものは分からない。長明は1204年50歳にして、すべての要職を捨て、突然出家をしてしまった。京都の洛北大原山に隠棲(いんせい)し、後には日野の外山に、小さな方丈の庵(いおり)を結び、冒頭の「方丈記」を書き綴ったのであった。

方丈庵の大きさは、一丈(約三m=約2.73坪)四方で畳にすれば、五帖半程度に相当する。この一丈四方というところから、本の題である「方丈記」の名は付けられたようだ。この庵の特徴は、竹を多く使っているので、丈夫な上に軽く、簡単に分解し、移築することが可能な造りなのである。早い話が、今で言えば、ホームレスの段ボールハウスに近いものであったかもしれない。

大きな神社の息子が、突然このような小さな住いを造り、隠棲したのかは、謎である。神道から仏門の道への思想変化も謎である。一説によれば、下鴨神社の宮司になる夢が断たれたためだとか、父親と喧嘩したために家出をしただのと、後に勝手な噂が流されている。しかしそんなことはどうでもよい。すべては「下司(げす)の勘ぐり」というものだ。

方丈記の最後で、長明は出家した事情について、次のように短く独白している。

「世をのがれて、山林にまじはるは、心を修めて道を行はむとなり」と。(訳:出家して、山の奥に住んだ訳は、自らを知り、心を静寂にする道を行こうと決意してのことである)

ともかく鴨長明という男が、地位や名誉や権力お金などのすべてを捨て去って、このような小さな庵に一人住んで、自分について、人の世について、様々考え続けて、62歳の生涯を終えた…。 佐藤

 


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1999.5.19