判官贔屓論考
1 はじめに
判官贔屓の本来の意味について
源義経は、奥州平泉にて31才の短い生涯を閉じました。平家追討の最大の功労者でありながら、何故このような
悲劇的な人生を送らなければならなかったのか。考えてみたいと思います。
先日ある方にお会いして、「判官贔屓」(はんがんびいき)という言葉についてお話をしているうちに、その方が
「『判官贔屓』という言葉の本当の意味は、能
や浄瑠璃や歌舞伎で義経さんが登場する『判官物』を贔屓するという単純な言い回しから始まったのではないですか?」と言われました。
私も「なるほど」と思いました。確かに、私たちは今、「判官贔屓」というと、とかく難しく考えてしまいがちで
す。
「薄幸の生涯を送った悲劇のヒーロー源義経を憐れむ日本人独特の心情。そこから転じて、立場の弱い者を思わず
応援してしまうこと」
とか何とか。堅苦しい定義づけをされています。そうではなく、「判官贔屓」とは、実は、もっと単純な意味だっ
たという話です。能でいえば「舟弁慶」(義経
さんが大物浦から西海に行く際、平知盛の亡霊が出て行く手を阻む能)とか「安宅」(勧進帳のベースになった安宅の関で、弁慶が義経を打つので、人々の涙を
誘う)など。歌舞伎でいえば、「義経千本桜」のような義経さんを扱った「出し物」を、単純に好きな人たちのことを、「判官物を贔屓する人」という意味で、
「判官贔屓」という言葉が江戸中期頃に誕生したのかもしれません。この説は、案外当たっているかもしれません。
2 判官贔屓の歴史について
世や花に判官贔屓春の風 作者不知
という句が、「毛吹草」(けぶきぐさ:松江重頼著 岩波文庫 新村出校閲 竹内若校訂 黄200−1)という
書物の巻第五「春」の部の「花」の項に見えま
す。この本は、その序文に寛永15年に書いたとありますから、1639年頃に書かれ、正保四年(1647年)に発刊された俳諧作法の書です。この松江さん
という著者は、貞徳門下の異端者と解説にありますが、才能の割には、俳諧の道の成功者とは必ずしも呼べない俳人だったようです。
「世や花に」という初五の「や」の使い方は、少し無理があるように思えます。「や」とすると、この句の全体の
意味は、「まったく当世だね、花に判官贔屓と
いう春の風が吹き付けて儚く散って行くことだ」というようなことになると思います。「や」を「の」に代えたいところですが、そうなると意味が変わってきま
す。いずれにしても句としては平凡な句だと思います。
さて、以上のことから、冒頭の「判官贔屓」の句が詠まれたのは、1639年以前ということになります。
ちなみに松江重頼の判官を詠んだ句に、
月遅き夜討はつるぎの光かな 重頼
があります。これは、頼朝の命を受けて義経が滞在する京都堀川屋敷を襲った土佐房昌俊の夜討を描いた古画に感
じいって作った作と言われています。きっと松江さん自身、九郎判官義経を贔屓にする「判官贔屓」の俳人だったのかもしれません。
現在、俳句(俳諧)と言えば、松尾芭蕉と言われるほどの名声を得ている芭蕉は、1644年(正保元年)に生ま
れ1694年(元禄7年)に亡くなっていますから、「判官贔屓」という言葉が巷で流行していた頃に活躍した人物ということになります。
私は、芭蕉の最高傑作の「奥の細道」は、平泉行を頂点とした義経紀行であったと考えていますが、案外芭蕉は、
冒頭の句のように、「判官贔屓」という世の春風に乗って、奥州まで行き、あの名句、「夏草や兵どもが夢の跡」をを詠んだのかもしれません。
以下、「判官贔屓」という言葉は、こんな流れを辿ります。
○「判官殿も亦縁者にあらねど、むかしより贔屓せる事今に止まず」(「義経風流鑑」序)正徳五年刊
(1716)
○「末世の今に至る迄、判官贔屓と犬うつ童迄言い伝えけるは、誠に古今類いなき名大将とは知られける」
(「花実義経記」巻之六)享保五年(1721)
○弓も引きがた判官様贔屓(「御所櫻堀川夜討」三段目)元文二年(1737)
そしていよいよ、江戸庶民の判官贔屓の風を背景に、判官物の集大成とも言うような、作品が誕生します。「義経
千本桜」(延享4=1747年)です。この作
品ははじめ浄瑠璃の脚本として作られ、歌舞伎の舞台でも上演され江戸庶民に大好評を博しました。今日、私たちは、判官贔屓の歌舞伎として、まず頭に浮かぶ
のは、歌舞伎十八番の「勧進帳」ですが、この勧進帳は、能の安宅(1460−1500年頃成立?)を翻案して三世の並木五瓶によって書かれたもので、天保
11年(1840年)に七代目の市川団十郎によって初演された比較的新しい(江戸の末期という意味で?)作品なのです。(佐藤弘弥)
次回は江戸時代に、何故このように判官物がブームとなり、「判官贔屓」の言葉が日本中に広まったのか、その江
戸時代の精神風土について考えてみたいと思います。
3 江戸の庶民と「贔屓」というもの
何年か前、小笹寿司のオヤジさんに、「佐藤さんはオサムライだからな」と言われたことがありました。「オサム
ライ?」その時は、何の意味かと思いました。
しみじみその言葉を噛みしめてみると、「江戸前寿司という文化を背負っている」という強いアイデンティティを持っているオヤジさんの言いたいことが段々と
分かってきました。
江戸文化には、サムライ文化と町人文化のふたつの流れがあります。サムライと町人では、言葉から始まって、年
末年始の過ごし方から、人生観までまるで違うものです。今下町言葉として語られる気っぷのいい江戸言葉は、庶民(町人)たちの言葉でした。
サムライの社会というものは、建前の社会で無骨、それに対して町人は、義理人情に厚く「粋」と呼ばれるような
ところがあると言われます。つまり江戸っ子と
いうのは、おおむね江戸の町人(庶民)のことで、サムライとは、江戸幕府の役人でも、他藩の旗本や下級武士でも、サムライ言葉を操って、江戸庶民からすれ
ば、鼻持ちならない連中だったかもしれません。
だからサムライと町人では、価値観がまったく違う。しかも今日、「江戸の文化」として残っているものは、たい
がい浄瑠璃でも歌舞伎でも浮世絵でも俳諧(俳
句)でも、町人たちの感性に合わせて発展してきたものです。その時、サムライたちは、何をやっていたか。能であり茶でり和歌でした。考えてみれば、これは
「楽しみ」というよりは、武士の「たしなみ」であったわけです。その辺りに建前で生きるサムライの堅苦しさというものがあります。おそらく俳句ではなく歌
を詠み、小理屈をこねる私をオヤジさんは、「オサムライ」と呼んで、「自分の価値観」とは違うお客として見ていたのでしょう。
時々、小笹のオヤジさんに、寿司に因んだ自作の歌を即興で披露をすると、「歌なんか詠んで、俳句になさいな。
江戸っ子というものは、俳句ですぁ。短くばっと詠む。歌なんて、どうも長くて性にあわいねえ」と言われたものです。
俳句は、正岡子規が「俳句」と呼ぶまでは「俳諧」と呼ばれました。俳諧の、「俳」は「おどけ」とか「たわむ
れ」の意味であり、「諧」もまた同じような意味です。ですから滑稽でたあいなくおかしな歌という意味にもなりましょうか。
今では、一般に俳句の革新者と呼ばれる正岡子規(1867−1902)あたりから小難しい理屈がついて、「写
生」が強調されて人生を詠むようなものになっ
て、子規の弟子の高浜虚子(1874−1959)の子孫たちが流れを継いで家元のような立場(結社)になって、大変な拡がりをみせていますが、私はどうも
趣味にあいません。それに第一季語からはじまって様々な規制が多いこと。また句会で寄ってたかって批評して、新しい風体の句を、貶してしまう傾向にもどう
も抵抗があります。
江戸時代はもっと句会はおおらかだった。つまり俳諧の創成期は、町の旦那集が集まって、次々とたあいもない句
を詠んで、楽しむものでした。芭蕉は、そんな
中で深川に芭蕉庵という庵を構えて俳諧の宗匠(師匠)をしていた人物でした。芭蕉は、本名を松尾宗房と云い、その出自はというと伊賀国の藤堂家に仕えるサ
ムライだったのです。
ドナルド・キーンさんは、芭蕉について、こんなことを云っています。
「江戸の作品でいちばん普遍性のあるのは芭蕉でしょう。(中略)しかし近松になると特殊な道徳観倫理観が入っ
てきて、読書のじゃまになる。」(日本人と日本文化 中公新書 P172)
慧眼ですね。普遍性とは、世界精神のことだと思います。近松門左衛門(1653−1724)は、江戸の大作家
ですが、義理と人情など、江戸時代の町人の小
難しい常識が壁となって、外国の人には伝わりにくい。それに対して、シャークスピアの戯曲などは、世界中の人が読んでも、納得するものがあります。
また普遍性とは、時代を越えて生きて行くものという定義とも云えるでしょうか。つまりキーンさんの本意は、芭
蕉の「奥の細道」も近松の「心中天網島」、
「曾根崎心中」も、日本文化の中の古典ではあるが、時代と日本という場を越えて残って行くのは、やっぱり芭蕉だ、ということになるのでしょう。そこで私は
密かに、芭蕉が世界精神に到達した秘密は、建前(理屈)を思考するサムライの気風を持っていたからだと思っています。このことについては後に触れたいと思
います。
それにしてもキーンさんの江戸期の作に普遍性がないというのは、大胆な仮説です。キーンさんは、浮世絵に描か
れた構図や人物は美しいけれども、その風景や人物に「立体感」が乏しいというようなことを云っています。
江戸時代において、支配者であった徳川幕府は、自分たちの権力を維持するために、それ以前の日本人の風習を破
壊しました。それは戦国時代まであった下克上
の思想を徹底的に排斥して、儒教の孝行の思想を巧みに持ち込んで、人間の序列関係を「士農工商」という形で定着化し、海外からの情報を遮断しました。これ
によって、世界の情報は、幕府と一部の有力な藩に偏在するとになったわけです。今流行の言葉で云えば、「情報の非対称性」ということにもなりましょうか。
現在の日本人の意識にも、この徳川時代に培われた儒教思想の悪しき残がいの多くが日本人の心に無意識という姿形で残っていると思われます。それは意識され
た時、「日本古来の伝統」あるいは「文化」と、さももっともらしい言葉で飾られて表現されるものです。もちろん「古来の伝統」と呼べるものも確かにあるで
しょうが、実は徳川260年の治世の権力維持イデオロギーの方が圧倒的に多いと思うのです。
別に私は、孔子の教えを否定するものではありません。むしろ私はソクラテスやキリスト同様人類の教師としての
孔子の考えが大好きです。彼の考え方は明らか
に「世界精神」の最高峰だと思います。その世界精神を、引っ張ってきて、権力の絶対的な維持装置として利用する江戸期の儒教思想というものが問題だと私は
思うのです。本来武士道の根本は、忠義あるのではなく、武をもって己の人生を切り開いて行くという逞しい人生論のはずです。それがいつの間にか、忠義、忠
孝が、規範となって、権力者の権力を守るための「教え」や「道」になって普く日本の民衆に喧伝されていったのです。
江戸時代、サムライたちは、建前かどうか能を好みました。能楽師は、幕府や藩に高い身分を約束されて雇われ、
能楽師の言葉が、サムライの世界での標準語
だったことは、あまり良く知られてはいません。これはよくあることですが、町人街と武家屋敷を川一本隔てると、こっちは江戸弁で、向こうはサムライ言葉と
まったく違う世界が、近くに対峙していたというのは面白い話です。
歌舞伎というものは、江戸中期から後期にかけて、町人たちの大いなる楽しみでした。町人の立場からすれば、能
は、ただ眠くなるだけの「哲学講義」のよう
だったでしょう。それに対して、歌舞伎は、派手で大胆で、何でもありで、娯楽の少なかった江戸時代にあって、町衆は、歌舞伎の新作が出る度に、粋な格好を
して、胸躍らせながら見に行ったことでしょう。ところが、そんな歌舞伎が、幕府に弾圧を受けました。奢侈(ぜいたく)で派手だというわけです。その結果、
歌舞伎は、様々な規制を受けて、役者は男性だけになって、一種独特の様式美をもった芝居として発展し今日の歌舞伎となりました。
「能」と「歌舞伎」を比べて見る時、「サムライ」というものと「町人」の文化の違いがあからさまになります。
能の文化は、褒めれば哲学的ですが、ある意味
貴族趣味的です。和歌でもそうです。歌会は、簡単には開催できない雰囲気があるが、俳諧の座だったら、どこでも開けそうな雰囲気がある。ちっとも気取って
いない。良いものはいい。悪ものは悪いというメリハリが、はっきりします。
小笹のオヤジさんは、歌舞伎では「成田屋」を贔屓していました。成田屋は、もちろん市川団十郎の一門の屋号で
す。江戸の町人たちは、必ず自分の贔屓筋とい
うものを持っていたものだったようです。私は少しでも「団十郎」の芝居について、悪い批評でもするものなら、プイとい不機嫌になって、「あんたなんかにあ
の芸の深さは分からないだろうな」と云わんばかりになるのでした。
江戸の町人たちにとって、「贔屓」とは、それこそ無償の応援行為です。そこに理屈も利害も何もない。ただ応援
するのです。団十郎が、「勧進帳」で弁慶をやるとなれば、熱狂して、その派手な舞台を見て彼らは泣いていたはずです。
おそらく、小笹のオヤジさんも、子供の頃から、歌舞伎座に行っていたのでしょう。またきっと、銀座小笹の店
で、先代の団十郎のお相手をしているのでしょ
う。そんな「客」と「亭主」の「馴染み」が「贔屓」という感情を形つくっているのかもしれません。相撲も同じで、オヤジさんの贔屓は、春日野部屋で、部屋
の力士は、わが子のようにして応援していました。ちなみに部屋の栃乃洋への小言を云うものなら、たちまち機嫌が悪くなったりしたものです。江戸庶民は、お
そらくこのようにして、自分の贔屓をつくって、夢中になってその贔屓筋を応援したのでしょう。
4 「益荒男」から「手弱女」への義
経像の変化について
歌舞伎の判官物を見てみると、判官物といわれる出し物でも、義経さんが中心になって、ガンガンと活躍するもの
はまずありません。いつも義経さんは脇役で
す。まあこれは「能」の流れを汲んでいると思うのですが、「舟弁慶」でも「勧進帳」でも、「義経千本桜」でもみな不遇を託(かこ)つ義経さんは、主役では
なく、あくまで物語を展開するための脇役に過ぎません。主役と言えば、前のふたつでは義経を守ろうと才知のすべてを駆使する武蔵坊弁慶であり、「千本桜」
の場合は、佐藤忠信と静御前です。しかもその忠信はニセ者であり、実は母の皮の張った鼓を追う狐の化けた姿という奇想天外なものです。
このように考えますと、義経の華々しい立ち回りなど、一切ないという不思議なことに気付かされます。何故で
しょうか。例えば、一ノ谷合戦の義経の雄姿を歌
舞伎座の舞台で是非観たいという要望もあったかもしれませんが、結局作られなかった。「一谷嫩軍記」(1751年初演:いちのたにふたばぐんき)というも
のがありますが、結局、これも熊谷次郎直実が平敦盛の首を取るシーンで、哀れを感じた直実がわが子の首を取って義経に渡す場面がメインとなっています。
江戸庶民における判官物の贔屓という点を考えると、もはや義経はただ可哀想な存在とか、哀れということを越え
て、ひとつの理念か記号のようなものになって
いることを感じます。理念(記号)と言えば、それはひとつの○とか△とかのデザインのようなもので、それだけでは意味をなさないような何かです。もっと極
端に云えば、義経の英雄性は消されていて庶民の心の中では、ある種の記号のような存在になってしまっているという感じがするのです。
江戸庶民が「判官物」を好み、九郎判官義経を可哀想に思ういう憐憫(れんびん)の情を持っていたということ
は、実は一種の建前であり、本当のところは、趣
向の対象(記号)のようなものでしかなかったということかもしれません。そこで重要なことは、庶民の心に中で、義経という人物の荒々しくてどうにも手に負
えないような軍事的天才の部分が、いつの間にか取り払われて、弱々しくてどうしようもない哀れな存在に変貌させられているという現実です。
考えてみれば、「判官贔屓」で語られる義経には英雄の面影は一切ありません。英雄性はすっかり影を失せて、取
り払われいる感じがします。判官贔屓の源流
は、「義経記」だと言われていますがが、そこで英雄性を感じさせる部分は、どこにも見あたりません。江戸期には、さらに強く義経の英雄性が完全に払拭さ
れ、記号のようになって行ったのだと思います。
言葉で云えば、「益荒男」(ますらお)が一転して「手弱女」(たおやめ)に変化(へんげ)させられたようなも
のです。この変化こそが、判官贔屓と我々日本人が呼んでいることの真の姿かもしれません。この変化はどんなメカニズムで起きたのでしょうか。
5 中尊寺の「伝源義経公肖像」考
平泉の中尊寺に源義経の肖像であるとして伝わる画があります。この画について、詳しいことは分かっていませ
ん。いずれにしても室町期から江戸中期に描かれ
たものと推測されます。室町期と言えば「義経記」がまとめられた時期ですし、江戸中期と言えば、江戸庶民が、判官物の芝居に熱狂していた時期です。芭蕉
は、そんな悲劇の英雄を思いを馳せて、心の中で「ヨシツネ、ヨシツネ」とかけ声を掛けながら、「奥の細道」への旅を続けてきたのかもしれません。
中尊寺の源義経像は、どこからどう見ても英雄の面影はありません。失意の中にいるように見える。右斜め方向か
ら描かれた義経は、上に朱色に着物に透けるよ
うな薄ものを羽織って、紺地の袴を履いて胡座座りをしているのです。袴の裾からは白足袋を履いた左足が覗いています。腰には小刀を差し、左手には扇子を下
に向けてもっていいます。この扇子を腰にさして立ち上がろうとしているように見えます。特に義経の目線に注目したいと思います。義経は誰かの発言を聞い
て、立ち上がろうとしているのです。
誰かといえば、それはおそらく弁慶です。実は中尊寺には、もう一枚、弁慶の肖像と伝えられる画が遺されていま
す。画の人物は、僧兵の格好をし左から片膝をついて、誰か身分の高い人に何かを告げようとしているように見えます。顔色は藍色で異相な風貌をしています。
つまりこのふたつの画は、一対を為すと思われます。左に義経、右に弁慶。これで全体の構図が掴めます。
構図から、この一対の肖像はおそらく文治五年閏四月三十日、義経が泰衡の郎党500人に襲われた時の一瞬を描
いたものと推測されます。義経の顔を見れば、無精ヒゲが生え、髪も整ってはいません。ここに天才武将の面影は一切ありません。
この絵が中尊寺に存在するのは、鎌倉幕府の手前、源義経を鎮魂する「義経堂」を建てる訳にはいかない中尊寺の
寺僧たちが、その家来である弁慶堂を建てて、義経の御霊に合掌したことに始まるのではないかと推測されます。
現在月見坂登り切って、少し行くと右に東物見があり、左に弁慶堂があります。その御堂の中に、座っている小さ
な義経像の前に、薙刀を持って厳つい顔で仁王
立ちしている弁慶が見えます。まさに弁慶の立ち往生伝説を思わせる木造です。またここには弁慶が三日で自分を掘ったと言われる木造も安置されています。
おそらく熱心な義経信奉者が、中尊寺の弁慶堂にこの義経と弁慶の肖像を奉納したのではないでしょうか。画には
銘が刻まれていないなど、疑問な点も多く、そのうち寺の中から関係する文書や、画自身の科学的な研究によって、描かれた時代なども判明するかもしれませ
ん。
ともかく、私たちは、荒々しさは、弁慶に譲って、義経はひたすら弱々しく寄せ来る運命に翻弄される子羊の如き
民衆のイメージの中にある義経像を目の当たりにするのです。
6 聖徳太子のイメージの変容と判官贔屓について
源義経という人物は、非常に強い意志を持った人間です。人によっては、そんな義経を父義朝の復讐しか頭にない
単純な男と切り捨てる傾向があります。彼の意
志の強さと軍事の才能がなければ、源氏軍は、あのように華々しい勝利によって、鎌倉に独自の政権を打ち立てることは叶わなかったはずです。
この義経さんの意志の強さに比肩しうる歴史的人物は、聖徳太子という人物ではないでしょうか。当時の仏教は、
国家と呼ぶには、いささか心もとない大和政権
にとって、刺激に充ち満ちた宗教だったと思います。日本人は、この教えとの出会いによって、はじめて世界精神というものに触れたのではないかと思われま
す。
若き聖徳太子は、まさにこの時期の国家建設のプロデューサーでした。彼は百済や高句麗の高僧を招き、仏教の奥
義を学び、朝鮮半島の諸国や中国を統一した随
にも負けない国家を建設しようとしました。そんな動きに驚いたのは、大和政権古来の神々を祀り事の中心に据えるべきと主張する物部一族であったと思われま
す。
それでも太子は、強い意志で、たじろがずに進みました。彼はわずか22か23歳の若さで、推古天皇の摂政とな
ると、矢継ぎ早に急進的な改革を進めました。
603年には冠位の十二階。604年には十七条の憲法を発布。607年には隋の国主煬帝に親書を送り国交を開きました。その親書の冒頭は、「日出ところの
天子、日没する国の天子へ云々」と書き送り、それを見た隋の煬帝は火のように激怒をしたといわれますが、そこは流石に政治家です。彼はこれをグイと腹に納
めて、日中国交がなったのでした。こうして日本は中国の進んだ文明を吸収することが可能になったのです。
太子の改革は、急激過ぎたのかもしれません。島国の日本が、太子ひとりの意志の力によって、世界最先端の国家
の文明を取り入れることば、古い日本の姿を愛
する人にとっては、青天の霹靂のような出来事だったに違いありません。そして結局、太子は、歴史の闇の中に葬り去られたということになってしまいました。
太子の48年のけっして長くない生涯を思う時、その意志という点で、義経さんに重なるものを感じるのです。太
子の生涯は、誰がみてもその才能と業績に比して、余りにも悲しくあっけないものでした。その一族もまた皆滅ぼされてしまっています。
1980年代の後半頃、法隆寺の救世観音でしたか、その体内の中から、聖徳太子と思われる人物の木造が突如と
して現れたことがあります。それを見た時、私
の中で戦慄が走りました。何故ならば、その表情が、余りにも厳しく、何者かを恨みその人物を凝視しているように見えたからです。法隆寺は、梅原猛氏によれ
ば、太子を鎮魂するために作られたものであるということです。その事の意味が、あの千四百年振りに、現れた聖徳太子の木造を見て、しみじみと分かったので
す。
しかしどうでしょうか。今私たちの聖徳太子のイメージといえば、穏和な顔で、二人の皇子を従えるお姿です。そ
れは以前の一万円札のあの聖徳太子像です。さ
てあの一万円の聖徳太子が、江戸時代に描かれたものであることを知っている方はどのくらいいるでしょうか。あれは幽竹法眼という絵師が筆をとったもので、
宝暦13年(1763)に法隆寺に納められたものなのです。
いったいこの柔和な顔と先の体内から現れた太子の厳しい表情の違いは何を意味するのでしょうか。
実は他にも聖徳太子像というものをいくつか見たが、このような優しいイメージとは違っていて、多くは寸分の隙
も見せないような厳しさに満ちている太子像が多く遺されています。そして奇妙なことに制作年代が古くなればなるほど、厳しい表情になる傾向にあります。
おそらくこの理由は、梅原猛氏のいうように、ある時期まで、聖徳太子は怨霊となって、自分を悲惨な運命に追い
やった人物や一族に災いをもたらしたことの証
拠ではないでしょうか。そして何度か太子の御霊を鎮める儀式が催され、法隆寺なども建てられて、太子の怒りが鎮まったと人々が実感するごとに、太子の表情
に優しさが表れていったということになるのではないでしょうか。
怨霊退散ということは、古代から近世に至るまで、重要なことでありました。そのために陰陽道も利用されたこと
でしょう。このようにして、太子の雷(いかず
ち)のような鋭い才能は、ある時畏れられ、やがて日本人の心の中でも、今の我々が容易にイメージする太子の柔和なお顔になったということではないでしょう
か。結果として、日本人は、太子を日本国家建設の大恩人として太子信仰というものが起こりました。
以上のような聖徳太子のイメージの変遷にみるようなことが、義経さんのイメージの変貌(判官贔屓の生成)でも
適用できないでしょうか。
7 日本人のタテマエとしての判官贔屓】
源義経という人物にしろ、聖徳太子(574-622)にしろ、菅原道真(845-903)にしろ、日本では常
人を遙かに凌ぐ才能をもって生まれてきた人間を、どうも叩いて叩いて、潰してしまう傾向があるのは否定できません。
聖徳太子の十七条の憲法の一条は、以下のようなものです。
「一日、以和爲貴、無忤爲宗、人皆有黨、亦少達者、是以、或不順君父、乍違于隣里、然上和下睦、諧於論事、則
事理自通、何事不成」
これを少しやわらかい現代語に直せば、このようになるでしょうか。
「第一条は、柔らかい気持を大切にして、何かにつけて逆らうような態度や気持をなくしましょう。誰でも人には
考えがあり、志を同じくする仲間(党)がおり
ますが、世の中をよく心得た人物というものは少ないものです。このことから大君や父親に従わず、人の道を外してしまうのです。そうではなく、上にある者
は、柔らかい和の気持を持ち、下の者は睦み合う気持を持って、議論を調和させることができれば、和の道は自然に開けて、どんな難しい問題でも解決しないと
いうことはないでしょう。」(佐藤訳)
素晴らしい言葉です。現代の国際政治にも通じると思います。この後、太子は二条において、仏教の精神を国家に
導入しようとします。さて、何故、聖徳太子が
17条のトップに、「和の思想」を持ってきたのかと云えば、それは当時の「大和」と云った日本の国に「和の思想」が一番欠けていたと太子自身が痛感してい
たからだと思います。
事実、国家内部では、様々な権謀術数と人の道に反するような他人の足を引っ張るような事件が頻発していまし
た。その中で、儒教を学び、最新の仏教を自分の
人格の中に取り込んだ太子は、17条の憲法の作る目的として日本人としてのアイデンティティを世の中に広めるためにはどうしたら良いか、ということを真剣
に考えたのだと思います。
結局、太子は、一族であるはずの蘇我氏によって、皇位にも就けず、不遇のうちに亡くなりました。それはおそら
く、仏教そのものをも、権力安定装置としか考
えられない蘇我馬子(?−626)の暗殺に近いような陰謀があったとも考えられます。余りに先見の明があり、世界に目を開いてしまった太子に、馬子は危険
なものを感じたのでしょう。
きっとそれは、頼朝が義経に感じたものと近いと思われます。すなわち馬子も頼朝も、優れた政治手腕は持ってい
るが、自分の描いたシナリオが、目の前に居る余りにも優れた者によって、壊されてしまうことを畏れたに相違ないと思うのです。
菅原道真も同じ理由で、ある公家の讒言によって、右大臣を解任され、領地を没収された上に、九州に流され、不
遇のうちに亡くなったのです。
日本では、太子が17条の憲法に記した時代から、特別に目覚ましい才能を顕した人物を寄ってたかって潰してし
まう傾向があったということではないでしょうか。
さて今日の話しは、ここからが本番です。私はずっと、「判官贔屓」という言葉を考え続けながら、ひとつの結論
めいた感覚にぶつかりました。それは一般に
「判官贔屓」解釈とはまったく逆の結論です。一般に、判官贔屓は、「弱いものに味方してしまう日本人の心的傾向」ということが定着しているようですが、実
はこれは見かけ上のことであって、日本人の潜在意識には、太子や道真や義経というような特異な才能を発揮した人物を「やっかみ」、「うらやみ」、「このよ
うな人物が何故生まれて来たのだろう。それに引き替え、この才能も富も私はなんだ」と卑屈に考えてしまう傾向があるのではないかということです。
ある時、こんな話しを聞きました。ある局のアナウンサーが、100才の長寿を越えたお年寄りのインタビュー
で、「おばあちゃんが一番田楽しいと思った瞬間
は、どんな時でしたか?」と聞いたのですアナウンサーはてっきり、夫と出会った時とか、子供が生まれた時、あるいは戦争が終わって出征地から夫が帰って来
た時の話しが聞けるものと思っていたというのです。
しかしこの100才のおばあちゃんの口からは意外な言葉が出ました。
「一番楽しいこと・・・それは隣の羽振りの良かった家が破産した時かな・・・」
当のアナウンサーは、ニヤニヤしながら、嬉しそうに語るおばあちゃんが怖かったと云っています。分かります。
このおばあちゃんは正直なのです。面と向かっ
て、隣の家が破産した事が楽しいとは云える訳がありません。きっと、自分の家の貧しく、それに比べて隣の家の繁栄振りが悔しくて悔しくて仕方なかったので
しょう。
「他人の不幸は蜜の味」とも云いますが、日本人は、特にそのような傾向が強いのかもしれません。最近の芸能ネ
タで云っても、売れっ子の島田紳助が、同じ事
務所の女性を殴ったとかで、謹慎中ですが、私が見ていても、最近の彼は、少し増長している感じに見えました。そのような中で、コケてしまった彼を、「ほれ
みろ」と内心で思っている人間も多いのかもしれまえん。これは小さな「判官贔屓」的心情ということが言えるかもしれません。
ですから、「判官贔屓」というものを、余りに美化するのは、少し考えた方が良いと思います。誰しも自分の心の
奥になるが眠っているかなんてものは、分から
ないものです。そこに美しい花園ではなく、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する妖怪の栖(すみか)かも知れないのです。
おそらく、先の100才おばあちゃんだって、隣の家が破産したニュースを聞いた時には、周囲に「ざまーみなさ
い」とは云わなかったはずです。「まあ、かわいそうに、子供たちはどうなるのかしら・・・」だったと思います。人の心は、表に出る言葉とは裏腹なことが多
いのです。
その意味で、「判官贔屓」として美化されているものは、実は日本人の潜在意識であって、その怖ろしい意識の正
体とは、「特異な才能を示した人物の没落願望」であるかもしれません。
言い換えれば、「判官贔屓」とは、日本人のおぞましい「ホンネ」を隠す、「タテマエ」であるということになり
ますか。
8 河合隼雄氏の「中空構造説」と義経が討たれた深層について
今日は何故、日本において、義経や聖徳太子、菅原道真のように出る杭は打たれる傾向となるのか?ということに
ついて日本人の深層心理を踏まえて少し考えてみたいと思います。
もちろん「嫉妬」や「やっかみ」という感情は、日本に限らず世界中いたる所に存在します。しかし日本ほど、出
る杭をバッシングする国はないと思います。中
国には、「天子の思想」というものがあります。これが最も徳の高い者が天命をもって国を治めるべきという思想で、日本の天皇制の対極にある政治思想です。
またアメリカには、「アメリカンドリーム」という言葉があって、移民の国アメリカに世界中の才能ある人間を集める思想(?)となっている考えだと思いま
す。
ところで、日本の記紀神話について、臨床心理学者の河合隼雄氏(1928〜:現文化庁長官)が、「日本の神話
は、その深層が中空構造になっている」(「中
空構造日本の深層」中央公論社1982年刊)と発表し、以後様々な議論を呼ぶなど注目されています。簡単に言えば、この論の骨子は、古事記の中で有名なア
マテラス(女神)とスサノオ(男神)という神さまがいて対立しているが、この間にツクヨミ(月読と表記)という神さまが存在する。しかしこのツクヨミが意
味の不明な神で、三すくみの神のひとつが中空の構造になっているというものです。
このツクヨミの機能としては、アマテラスとスサノオの力をバランスさせるために存在すると思われています。つ
まり現実のアマテラスとスサノオの対立が、ツ
クヨミという存在感の薄い神を置くことで、調和させているということです。そしてこの神話の中空構造が、現実の政治でも当てはめられているという主張で
す。
最近では、この主張もさらに先鋭化していて、アマテラスは、その光があまりに眩しいので、神話の中では、外さ
れている、というようなことを言っている。つ
まりアマテラスという神が余りに力があり過ぎるので、その力が奪われて象徴的な存在になったということだと解釈できます。
考えてみれば、最近の日本の総理大臣という存在も、本当に力があるものがその地位に就くことはまれで、ほどほ
どに対立をバランスできる人物が便宜上で、総
理の椅子に座るような状況が続いています。昨今の小泉総理でも、彼が日本の政治の中で、最高の実力者と思っている人は少ないと思います。その意味でも日本
では、本当に力のある人間は、少し頭角を現しただけで、日本という変化を嫌う社会にさざ波を立てるものなら、その人物は、本気モードのバッシングの対象と
なり、疎外され、権力から遠ざけられることも少なくありません。そのことを知っているのか、現民主党の小沢一郎氏(現民主党代表代行)などは、トップに就
けるはずなのに、トップ就任を一貫して固辞しています。日本では、神代の時代から、政治の世界でも、異能な能力を発揮するような人物はバッシングされると
いう傾向があったことは否定できません。
この日本神話における中空構造というものは、おそらく日本人の深層心理にも反映しているものと思われます。権
力の中心を中空にしておくという考え方は、ひ
とつの日本的政治思想であり、これを具現化したものが、藤原氏が作り上げた万世一系の天皇制度というものと云えるかもしれません。藤原氏は、自己の権力を
うち立てる時に、この神話の構造をそのまま、権力機構として形成し、実質上は、彼らが日本の政治の実権を握っていたのです。
この構造は、一時期、院政の時代や天皇親政と言われるような時代もありましたが、基本的には、中空構造の日本
社会に構造的な変化があったとは見なされませ
んでした。中空構造の政治思想においては、特異に力の発揮するものは、社会構造を壊す存在であって、早い話が「出る杭」であります。だからこそ、特異な才
能は打たれなければならないのだと思います。
神話として日本人の深層心理まで達したこの中心を空にして置くという思考が、日本人一般にも広く浸透し、目立
つもの、つまり「出る杭は打つ」という傾向が浸透していったのではないでしょうか。
戦後、史的唯物論の影響の強い史学界では、あたかも頼朝を中世への扉を開いた革命家的な人物で、それに敵対し
た義経という人物は、院政下の京都政権を意味
も解らず支えた保守的な人物と見なす傾向がありました。今でも、この考えの影響が感じられます。考えてみれば、頼朝は、中空構造を打ち壊して鎌倉に新たな
権力をうち立てようとしたのではありません。結局彼は、中空構造を容認した上で、関東に経済基盤を持った板東武士たちの私有権を認めさせたに過ぎません。
逆に言えば、日本社会に定着した、中空構造の権力というものが、いかに強固なイデオロギーであったかということを物語っています。
結局、頼朝自身、社会の中で特異な才能を発揮する自分の弟の義経を「出る杭」として討って殺害してしまったこ
とになりますが、最後には頼朝自身が、日本社
会の中で「出る杭」として、原因不明の死を遂げざるを得なくなった。どっかの教訓話にあるようなエピソードです。そして源氏一族という「出る杭」を陰謀に
よって完璧に始末した北条政権は、京都から形ばかりの中空の権力者を迎えて、それからおよそ150年間の間、日本の政権を執ることになったのです。しかし
京都における天皇家とその藤原氏を中心とする公家たちは、この中空構造を具現化した都市とも言うべき都京都で、復活を密かに期して時節の到来を待ったので
す。今でも、京都人は、天皇は東京に仮に住まわれているが、何れ京都の御所に戻られる、と気を長くして時節を待っているといいます。日本における中興構造
の呪縛は、簡単には解けそうにありません。
このように考えて行く時、義経が討たれたのは、本当に才能あると思われたものは、権力の中心には就けないとい
う日本社会の特異な中空構造が影響していると
思われます。それは同時に「嫉妬」と「やっかみ」の心理とも複雑に絡み合って、「判官贔屓」という心理の一端をも形成している可能性があります。
9 頼朝贔屓の人が判官贔屓を評すれば・・・
ある新刊本を読みながら、こんなことを感じました。
「判官贔屓とは、本来比較対象物があっての贔屓の心情ではない・・・か?」と。それはズバリと言えば、「義経
が好きか、それとも頼朝が好きか?!」という
アンチノミー(二律背反)な心境ではないかということです。二位(にい)に叙せられた頼朝を「二品」(にほん)と呼びことがあります。ですので、「判官贔
屓」に対抗し、「二品贔屓」という心情があても良さそうです。一方の派の心情だけが、「判官贔屓」としてあるのは不思議と云えば不思議です。もしかする
と、「二品贔屓」という心情もあったが、いつの間にか忘れ去られて判官贔屓の心情だけが、語られるようになったものかもしれません。
人間の社会ですから、心情的に弟の義経を好きだという人と兄の頼朝が好きだという人に分かれるのは当然なこと
と云えるでしょう。
私の周辺にも、頼朝好きの人間が何人かいますが、やはり義経を好きだという人が圧倒的です。判官贔屓の一般的
な解釈では、「不幸な境遇や弱い立場の人間を
応援してしまう心情」ということになりますが、そうすると、比較対象の者があっての、贔屓ということになります。やはり「判官贔屓」とは、「頼朝よりも、
義経を贔屓する心情」という解釈をして良さそうです。
しかし頼朝を贔屓する人の心情は忘れられてしまった。よく考えてみれば、義経の背負った不幸に比べれば、頼朝
は余り不幸でないように見えますが、実は自ら
の突然の死やその子供(頼家、実朝、大姫)たちの不幸な境遇を考えれば、頼朝の生涯も相当不幸です。現に頼朝は、義経をあの世に葬ったわずか10年後にど
うにも原因不明の死に方をしています。頼朝は弟の義経を死に追いやった人物として人気がないのでしょうか。
そんな頼朝派の人が、義経の境遇や判官贔屓というものを記したらどうなるか。そんな本が最近出版されました。
「義経の悲劇」(角川選書 2004年9月刊)という本です。著者は奥富敬之氏。この人物は、編著として「源
義経のすべて」(新人物往来社1993年7月
刊)、「源頼朝のすべて」(同社1995年3月刊)の二冊や、「鎌倉史跡事典」(同社1994年4月刊)の著作のある鎌倉時代の研究者です。特に、「源義
経のすべて」という著作は、義経の生涯がアラカルト的にコンパクトにまとめられていて大変便利な本で、いつも座右にある本です。また著者は、2001年の
大河ドラマ「北条時宗」の時代考証もされ、今回の「義経」でも、時代考証を担当されるそうです。
プロローグで、この本の意図が語られます。
「”哀れだ”とか”かわいそうだ”というところまでは、人間の優しさということで、もちろん許容できるし、共
感もできる。しかし”哀れだ”ということが限
度を超すと”義経は正しかった”ということになり、ひいては義経を討った兄、”源頼朝は冷酷だ”というように短絡してゆく。そこでは、感情や感覚だけが先
行していて、物事を客観的に見る目はついに追いつけなくなっている。このような判官贔屓では、歴史の真実は理解できない。いわゆる『義経の悲劇』の原因と
はなんだったのか。このことを史実に沿って冷静に検証を試みることが本書の主題である。しかし、実はその答えはすこぶる簡単であると、私は考えている。そ
れは頼朝との確執である。」
著者はこうして、すでにプロローグにおいて、「義経の悲劇の原因は、頼朝との確執にあった」と持論を展開して
います。もっと分かり易く云えば、氏は、義経
は正しくなかった。あるいは兄の気持ちを理解できないところに悲劇の原因はあったと言外に述べているということになります。
さて、人というもののある思想が形成される過程においては、どうしてもポジショニング(寄って立つ立場)とい
うものよる偏向というものが生じると云われま
す。たとえば、アメリカから日本をみれば、アメリカで一般的に流布されている日本に対するイメージというものが、アメリカから日本をみる人のイメージに決
定的な影響を与えて、どうしてもそのイメージは、アメリカ的な視点の日本となります。また同じように中国から日本をみれば、その時々の日本への報道と流布
されたイメージが見る人物の日本のイメージに決定的な影響を与えてしまうことになります。そこで大切なのは、現地に行って実際の自己の感覚を総動員して、
よく吟味して見ることではないでしょうか。でもこれがなかなか難しいものです。
この奥富氏に、私はどうしても頼朝と鎌倉の視点から見た強い偏向の義経像を感じてしまうのです。著者自身、自
己の鎌倉的偏向をどのように意識しているかど
うかは不明でありますが、私は、鎌倉歴史散歩(新人物往来社2001年8月刊)の次のような箇所に、奥富氏のポジショニングを強く感じてしまうのです。
「敗走する泰衡の後を、すぐに鎌倉軍が追撃した、平泉に逃げ入った泰衡には、自館に立ち寄る余裕もなかった。
『我が館に、火をかけよ』。これだけ言い捨て
ると、馬に鞭打って、自館の前を馳せ過ぎたという。このような頼朝軍の追撃の速さが、多くの平泉の文化財を救った。危うく灰燼に帰することを免れたのであ
る。焼けずに残った建物のなかに、中尊寺の二階大堂、いわゆる大長寿院があった。」
ここには、事実誤認が認められます。あたかも頼朝の平泉への追撃が速かったので、平泉の他の堂塔が焼かなかっ
たというのは、誤りです。吾妻鏡を精読すれば
わかりますが、鎌倉軍が、平泉に侵入した時には、既に火は収まっていて、泰衡が火を放ったと思われる自らの住居の伽羅御所と政庁である柳の御所は、雨の中
でくすぶっていました。
あたかも、頼朝が入って、延焼を免れたと云わんばかりの記述はおかしいと思われます。しかも平泉に行けば一目
瞭然ですが、毛越寺や中尊寺、無量光院など
は、地理的にも離れていて、まったく無傷でした。泰衡の心情を考えれば、奥州の宝に火を掛けるつもりはさらさらなかったと思われます。彼は、おそらく、奥
州の政治文書などの重要書類を燃やさなければと、とっさに思って、その周辺にのみ火を放ったのでしょう。そこには、平泉に味方する公家から来た手紙や名が
記された文書もあったはずです。泰衡が燃したかったのは、奥州の戸籍やそうした重要文書だったと推測されます。つまり泰衡は、初代清衡以来の聖地と聖廟を
何としても守りたかったのです。
奥富氏の記述には、頼朝がまるでイラクに侵入したアメリカのブッシュのような立場であることを分かっていない
ようです。いったいどのような権限をもって、
奥州を進入し、その御館としての藤原泰衡の首を取るのか。歴史司法裁判でも聞いて、裁いてみたいものです。公平な裁判が開かれたならば、間違いなく義経は
無罪となるでしょう。それにその無実の罪を負ってしまった義経を匿った奥州にも罪というものは存在しなくなるはずです。侵略者頼朝を、宮沢賢治は「大盗」
(だいとう)と評し、次のような文語詩を遺しています。
文語詩 中尊寺〔一〕
七重の舎利の小塔に
蓋なすや緑の燐光
大盗は銀のかたびら
おろがむとまづ膝だてば
赭のまなこたゞつぶらにて
もろの肱映えかゞやけり
手触れ得ね舎利の宝塔
大盗は礼して没(き)ゆる
この詩は、現在中尊寺の金色堂の前に、宮沢賢治の筆跡のまま、婢となって立っています。結局、大盗である頼朝
は、仏(藤原三代の御霊のこと)の威光に畏れ
をなして、何も盗らずに帰ったと云っています。この国盗物語の史実を通常「奥州征伐」と呼びますが、無罪である者を「征伐」という文言で表してよいもの
か。そろそろ歴史家は、このような表記も含めた歴史の見直しが必要であると感じるのです。
10 報われぬ自己の人生の慰めとしての判官贔屓
日本人は、他人の不幸を見るのが好きだ。いや日本
人だけではなく、そもそも人間というものは、他人の不幸を見るのが大好きでした。ギリシャ悲劇もシェークスピアの悲劇も、みんな高貴な人物の不幸物語で
す。
どうも人間の心の奥には、悲劇に強く反応するセンサーのような感覚が眠っているかのようだ。日本の記紀神話の
中にも、スサノオやヤマトタケルのように、拭いがたい悲劇的な不幸物語がちりばめられているのです。
日本人の不幸好きの典型は、やはり源義経の悲劇的生涯にその極限をみることができるかもしれません。乳飲み子
の時に、源氏の頭領だった父源義朝は、宿敵平清盛によって殺されてしまいました。物心も付かない内から、彼は母常磐御前の腕に抱かれて冬の吉野を彷徨う運
命を背負っているのです。
7才で、鞍馬に預けられ義経は、自分の出自を聞いて愕然とする。僧侶になれという周囲の声を頑として拒み、金
売吉次という謎の人物の手引きで、奥州藤原氏
の元に密かに下ります。そこで、兄頼朝が、平家打倒の御旗を掲げて立ったことを知ると、矢も立てもたまらず、兄の元に駆けつけます。この短絡的とも言える
行動は、政治的な決断というよりは、素朴な肉親の情愛とも受けとれます。そして、義経は歴史の表舞台に、華やかに登場します。宇治川、一ノ谷、屋
島、壇ノ浦と、輝かしい軍功をうち立てて、平家打倒の最大のヒーローとなる。しかしながら、運命はたちまちのうちに暗転し、その末路は、哀れの一語であり
ました。
兄に疎まれ、何度も、逆らう気持ちはないとの、文を送りつけるも、受け入れられず、朝敵の汚名を着せられ、極
寒の吉野を彷徨います。さらに北陸道を北上して、奥州に
辿りつきます。しかしながら、父とも慕っていた藤原秀衡は、たちまち急逝してしまいます。何という不幸でしょう。孤立無援となった義経は、秀衡の息子の泰
衡の急襲を受けて自害を遂げるのです。
日本人は、義経の不幸を「義経記」として、まとめ上げました。およそ、この「義経記」が完成するためには、
200年から250年ほどの歳月が掛かった
ものと見られています。義経記というものを不幸物語として創り上げたのは、日本人の不幸好きの感性そのものから来たものかもしれません。日本人は、義経の
輝かしい軍功よりも、そ
の軍神の如き天才が、背負った不幸の数々にこそ、興味を示したことになります。以来、中世以降の日本人は、記紀神話のヤマトタケルのような神話的ヒーロー
より
も、辿ればすぐに、その人物の生きていた痕跡を見つけることのできる悲劇の人源義経により強く惹き付けられ、憐憫(れんびん)の情を抱くようになったので
す。
仮に、義経がたいした軍功も立てられない人物であったなら、日本人は、これほど判官贔屓と言われるようになる
まで、不幸物語としての「義経記」を愛読しなかったに違いありません。日本人は、貴種にして軍事の天才源義経の背負った不幸をこそ愛したのです。
判官贔屓の心理的効用は、「ほれ見ろよ。あの義経さんだって、人生においては報われなかったのだ。だから私な
どは・・・」という自己の報われない人生に対する補償作用(慰め)なのかもしれない、と私は考えたりもします。
11 判官贔屓の深層心理について
ヨーロッパで北野武のドキュメンタリー映画「北野武 神出鬼没」が話題だと言います。フランスの映画監督ジャ
ン=ピエール・リモザンという人物が作ったもので、1999年、映画評論家の蓮實重彦のインタビューを編集したものだそうです。
インタビューの中に北野のこんな言葉があります。
「一番のファンは一番足を引っ張ろうとする。その人が落ちていく様を見たがっているものだと事故の時に痛感し
た」
面白いと思いました。確かに、ある人物を「大好き」という心理の裏側には、それと裏腹に、「大好きな人物の運
が急にねじ曲がって真っ逆さまに落ちて行くのを見たい」という非常に否定的で屈折した心理があるものです。
例えば、ジョン・レノンを撃ったマーク・チャップマンという人物は、異常なほどの「ジョン・レノン・フリー
ク」(熱狂的ジョン・レノンファン)でした。彼
はジョンに憧れ、ジョンと同じような着こなしをし、小野ヨーコ似の中国系の女性を妻にしたりしました。彼自身ジョン・レノンになりたかったのです。
確かに極端な例ですが、彼がジョンを銃殺してしまった背景には、「大好き」の裏側にある心理の怖さを垣間見る
思いがするのです。大好きの裏側には自分自身が嫌悪するほどの嫌いという感情が潜在しているのです。
これは少し穿ち過ぎと言われるでしょうは、織田信長を暗殺した明智光秀にも信長に対する強烈な思慕と尊敬の裏
側にある屈折した心理がなかったとは言えない
と思います。だとすればその時、秀吉にも同じ心理がどこかに宿っていて、「光秀」の心理はよく分かると、心のどこかで思ったかもしれません。つまり光秀は
ある面では、大好きだからこそ信長を殺したとも言えないことはないのです。
カリスマになるほどの英雄というものは、このように思われがちなものです。さてこの短い考察の中で一番言いた
いことはこれから述べることにあります。
それは判官贔屓の心理にも、この方程式が当てはまるのではないかという仮説です。つまり判官贔屓は一般的に、
薄幸の義経の人生を思って義経に荷担する気
持ち、そこから転じて、弱い者の方を応援してしまう日本人独特の心情と説明されているのですが、。果たして本当に「判官贔屓」の心理は、弱い義経あるいは
弱い者の方
を応援している心理なのでありましょうか。
私は一般論的「判官贔屓」解釈とは別に、こと義経に対する民衆の心理には、どこかで戦となれば、鬼神のごとく
なる英雄の義経が、一転してネコの子
のようにして弱々しく落ちぶれ果て、ついには奥州の地で自害して果てるという惨憺たる悲劇を積極的に受容し、北野武がいうごとく、「その人が落ちていく様
を見たがっ
ているものだ」という屈折した心理がどこかにあるのではないかと推測しているのです。もちろん、おそらくこの心理は無意識(深層意識)に眠っていて、当の
本人は、いきなり「義経の落ちぶれた姿が見たいのでしょう」と聞かれれば、「とんでもない。私は義経が哀れで哀れで仕方ないだけです」と答えるはずです。
本人はそんな屈折した気持がある
などとは、少なくても表層意識では思っていないのです。ここに判官贔屓という心理の面白さと複雑な心理の背景があると思うのです。
例えば、北野の熱狂的なファンに、「あなたは北野が落ちぶれて行く姿を視たいか?」と問えば、「ふざけるな」
と目を剥いて怒るに違いありません。義経を思う私たち日本人の心理にも、このような屈折
した心理があるのではないでしょうか。つまり判官贔屓とは、喩えるならば無意識という暗黒の宇宙の中に幽霊のごとく浮遊している星屑のようなものかもしれ
ないと私は考えています。
12 日本人の潜在意識にある判官贔屓の視点につ
いて
判官贔屓論の視点から、故先代貴乃花の生涯を考えてみます。
貴乃花の人気の秘密は、どこにあったのでしょう。それを列挙すればこんな風になるでしょうか。
第一に若乃花という人気横綱の弟という毛
並み(血統)の良さのようなもの。
第二に寡黙で憂いを含んだ端正なマスク。
第三に小兵ながらも、どうしても応援したくなるような必死の相撲。
第四に女優との結婚を決意し反対を押し切っても添い遂げる意思。
第五に以上一〜四までのすべてを総合した稀に見る成功者であること。
これは一般的な見方です。さてこれからが、判官贔屓的視点となります。
判官贔屓の対象となる人物は、とことん苦労しなければなりません。相撲界で横綱にはなれなかった
が、名大関と呼ばれ、人も羨むような過程を持っただけでは、判官贔屓の対象にはなれなのですい。考えてみれば、義経が贔屓される理由は、兄頼朝という人物
に徹底
的に疎まれて放浪しなければならなかったという苦労譚(くろうたん)があったればこそです。
貴乃花の場合は、運がどこまでもどこまでも登り詰め、登り詰めた瞬間に、運命という大きな力となって、彼を嘖
み苦しめることになります、その劇的な運命の反転が判官贔屓ならぬ貴乃花贔屓を生む要因となっている気がします。
具体的にみれば、彼は新鋭千代の富士に破れて引退した時から、藤島部屋を起こし、誰もが認めるような角界一の
猛稽古によって、着々と関取を養成しました。そし
て決定的だったのは、自分の長男次男が、揃って弟子入りした瞬間から、彼の第二の相撲人生は始まったのです。見る間に、その子たちは出世を重ねて、二人は
父も果
たせなかった横綱の地位まで登り詰めてしまいました。こんな絵に描いたような瞬間が来ると誰が予想したでしょう。成せばなる。思いは叶うとはいいますが、
それにしても呆気ない成功譚でした。日本中、それこそ嫉妬
や妬みを越えて、素直に夢物語のような花田家の成功譚に拍手を起こりました。
さて判官贔屓の感性で言えば、心にもうひとつの思いが宿っているはずです。それは潜在意識に関係しているの
で、意識しない人も多いかも知れないが、心の奥ではこんな思いが沸々と渦巻いているのです・・・。
「あんな成功する人もいるんだ。それに引き替え、自分の運命の何と貧相なこと・・・。待てよ。でもあの人も
ずっと成功者でいられるんだろうか・・・」
心の奥では、微笑ましく思っている表層意識とはまったく違って、羨望の挙げ句嫉妬の心が首をもたげているので
す。つまり無意識はまったく別の所にあるのです。
そして、タイミングを見て、状況が変化します。それは兄弟仲が、悪いと言う風聞でした。そしてそれは風聞など
ではなく、事実だったのです。二人とも出世し、そして嫁を取り、一家をなし、付き人もいる。兄に付く者、弟に付く者。兄は
体力はない。父似だ。弟は強い根性で大横綱の階段を登ってゆく。横綱は、土俵に舞い降りた神であり、徐々に弟は、あれほど憧れた父貴乃花を越えてしまった
孤独を味わったはずでした。そこにつけ込むように、悪魔が入り込んだのです。もちろん悪魔とは弟の心にある増長というものでした。もちろん本人には意識は
無いかも知れません。しかし明らかに、弟の2代目貴乃花の心に隙が出来ていたと思います。もちろん横
綱のプレッシャーは想像を絶するもので、それが頂点に立つ者の孤独で、これが悪魔に魅入られる直接の原因になったかもしれません。
おそらく、この時の精神状態は、常に昂揚した状態だったと思います。しかし裏を返せば、それが2代目貴乃花の
人気の源泉でもあったことは事実です。例えば、有名な武蔵丸との一戦、足の関節が外れて、ブラブラさせながら、土俵でそれを調整して、決定戦で気合いで武
蔵丸を投げ捨てた相撲がありました。これを観ていた小泉首相が優勝杯授与の時に土俵上で「感動した」と語ったあの一番です。
私はこれを見た瞬間、何故、親方(先代貴乃花)は、「無理だ。止めろ。ギブアップしろ」と言わなかったのか。
そうしなければ、第一に相撲人生も早晩駄目になる可能性があるし、相手の武蔵丸にも失礼だと思ったものでした。
心優しい武蔵丸が、あの時、本当に力を入れていたら、どうなっていたか。武蔵丸こそあの一番の犠牲者であると
私は素直に思います。今でも、私はあの勝負には、様々なことが詰まっていると思います。ここから浮かび上がることは、父であり親方である貴乃花の引力圏を
越えて、次男の2代目貴乃花が、別の人格になってしまっていたということです。
もっと言えば、既に次男貴乃花は、父の権威を越えてしまって、「止めろ」と言っても聞くような存在でなくなっ
ていたということです。息子がエディプス神話のように知らぬ間に父親を意識の中で殺害していたという構図も当てはまるかも知れません。ここに父親の魂は、
この世に存在理由を失ってしまったということにもなります。花田家の分裂(兄弟仲互い)の要因は、この辺りに潜在しているように思われます。
こうして、花田家の運命は完全に曲がってしまいました。当然、当主である先代貴乃花の運命も変わることになり
ます。すべてが悪い方、悪い方に回転を始めてしまうのです。そして女優の妻との不和話と離婚騒動などが次々とマスコミに報道されるようになりました。やが
て跡を継がせようとした長男若乃花も、引退後、父の反対を余所に相撲界を離れてしまうことにも発展しました。人も羨む絵に描いたような理想的な家族は、こ
のようにして崩壊していったのです。
余りにも急激な運命の反転でした。相撲界で鍛えた精神力をもって辛抱に辛抱を重ねた貴乃花に決定的な不幸が忍
びよることになります。口の中に出来た癌という悪魔です。相撲界で、要職を登り詰めて行った貴乃花だったが、この病気が原因で、親方を引退。きっと目の前
を濁流が流れる思いで、どうしようもなく見守るしかなかったのかもしれません。
さて、ここで日本人は、このような貴乃花、一言も愚痴ももらさず堪える男を美しいと贔屓の目を持って見守って
きた。さてその裏にある心は、こんな囁きの中にあるかもしれません。
「人間というものは、先に成功するか、後に成功するか。大きな成功する人は、結局その反動も大きいのよ。良
かったわね。ウチはそんなのでなくて。でも可哀想。本当に可哀想。何が幸せか判らないわね。人生は・・・。」
「判官贔屓」という言葉は、一見非常に美しい響きに聞こえるものですが、本当は日本人の心の奥底にある怖い怖
い心理(無意識)なのかもしれません。
13 義経贔屓の芭蕉vs頼朝贔屓の家康の構図
義経と頼朝という兄弟をみる時、民衆に愛される義経に対して権力者に愛される頼朝という図式があるように思え
ます。
例えば、江戸時代で云えば、義経を愛した人間の代表格
として松尾芭蕉を、頼朝の方は徳川家康を上げて見たいと思います。
芭蕉の奥の細道の旅を私は、義経への鎮魂の旅と考えています。6年前私の知人の菅原次男氏が、神奈川の藤沢白
旗神社から宮城の栗駒判官森までを歩き通した旅に同行し、余りにも義経が歩いた事蹟と一致するのでびっくりしたことがあります。平泉は義経の第二の故郷と
言わ
れていますが、そこで芭蕉が最初に訪れた場所は、義経終焉の地とされる平泉の高館でした。何と、そこから芭蕉は、踵(きびす)を返し、山形の最上川を下
り、出羽三山
を抜け、やがて北国街道に至りました。この道筋は、頼朝に追われた義経主従が、奥州に向かった道と符合しています。芭蕉は、義経のことをあれこれと思い感
傷にふけりな
がら、街道を往復し、これを「奥の細道への旅」としたと私は考えています。つまり「奥の細道」の旅は、「義経感傷旅行記」というわけです。
一方、徳川家康は、日頃から、吾妻鏡を愛読し、頼朝がどのような局面で、どんな行動を取ったのかを研究してい
たと云われています。性格的にも、家康は頼朝の冷静沈着
さに惹かれていたと思われています。私が思うに、頼朝の失敗は、義経のような有力な一族を皆葬りさってしまったことにあったと思います。その頼朝の行動を
反面教師として、家康は御三家や
新御三家と云われるような同族支配体制を確立し、自らを武門の棟梁(征夷大将軍)とし位置づけました。
家康が敷いたこの徳川260年の封建体制は、「平和の徳川」と言えば聞こえは良いが、日本人のアイデンティ
ティの確立という見地から云えば、文化的には経済的にも「停滞」の時
期であり、日本人が世界史から大きく遅れを取る精神の暗黒の時代だったと思います。下克上の戦国時代、誰もが、槍を持ち、刀を持って立ち上がれば、天下を
目指すこと
ができました。ところが徳川になって、身分は固定化し、日本中には、徳川のスパイのような新御三家と言われるような松平家がそちこちに配置されていきまし
た。
まさに徳川時代は、「ミザル・イワザル。キカザル」の風潮を民衆に強いるようなところがどこかありました。戦
国時代の武家的気風を奪われ
た民衆は、士農工商という封建的身分制度に甘んじてはいたものの、その時代への郷愁が、義経への思慕となって、判官贔屓が出来上がって行ったものと思われ
ます。
江戸期の民衆が頼朝を概ね嫌いだと裏には、民衆のうちにある反権力的な意識があったと私は思っています。言葉
を換えて言えば、それは動かぬ時代への民衆のせめてもの抵抗だったとも考えられます。一方で訳もなく義経を好きだという意識の背景には、軍事的天才として
異常なほどの能力を発揮し時代の寵児となった義経に対する人間的共感(シンパ
シー)と無垢の日本人が生き生きと活躍していた時代への郷愁(ノスタルジー)のようなものがあったのではないでしょうか。
実は現代でもその民衆の心理は変わらないような気がします。今日でも「義経よりも、頼朝に共感を持つ人はもち
ろんいます。しかしその人達も頼朝が好きだというよりは、頼朝の方が、現実に対する対応
力がある。もしも付いて行くのであれば、頼朝の方が安定した人生が送れるのではないか、というほどの政治的な理由からではないでしょうか。つまり、頼朝の
冷徹で現実主義的
な感覚を「消極的」に受け入れているということになります。
しかし私は思うのですが、消極的に頼朝のような人物を受け入れ、安定を望むというような政治意識では、日本が
現在構造的にはまってしまっている蟻地獄のような状況から、抜け出すことはできないと思うのです。義経のような天才が持つ、突破力が、現代の日本がもっと
も必要とする資質ではないでしょうか。徳川家康の敷いた封建的イデオロギーは、出る杭は打つ式のやり方で異能な人物を受けつけない傾向にあります。それが
判官贔屓という心理にも一部影を落としていることは既に述べた通りです。
例えるならば、日本人は徳川時代以降、異能な人間は排除するか、批判的発想というモジュールを教育によって取り去って、ロボットの如く平準化してきたようなものではないでしょうか。そ
の典型が日本の官僚制度なのかもしれないと私は思います。大学時代には、あれほど有能だった人物がが、省庁に入った途端、口を貝のように閉じて無能にな
る。いや無能のフリを装っているのかもしれませんが。今でも、何も言わないことが美徳だという誤った風潮が、どこかにあります。だからこそ、この状況を打
開するためにも、私は、「今こそ現れ出でよ。21世紀の義経さん!!」と言いたいのです。
14 倫理思想としての判官贔屓
2006年8月2日に行われた亀田興毅の世界戦が内外で物議を醸しています。
一見日本人亀田興毅が、負けたかに見えた判定が勝ちとなって、日本中から「あの判定はどう見てもおかしい」と
の声が上がりました。
そして驚くべきことは、敗れたファン・ランダエタ選手の母国ベネズエラの日本大使館に、日本から数千通にも及
ぶ激励のメールが殺到したというのである。そ
の内容は、「あなたの勝ちだった」、「こんな問題で日本を嫌わないで欲しい」、「あなたがチャンピオンだ」など、そのほとんどが、ランダエタ選手に対する
日本人としての謝罪と激励のメールでだったと言います。
このニュースを聞いた時、「おや?」と思ったのです。それは「判官贔屓」でこのニュースを解いたらどうなる
か?ということでした。
周知のように一般に判官贔屓は、「立場の弱いもの、あるいは敗者に対する日本人特有の憐憫の情」と言われま
す。この場合、それが当てはまりそうであるが、も
うひとつの事実を発見しました。それは、「公正さ」ということである。英語で言えば「フェア」です。これまで「判官贔屓」というものは、『歴史的事実に対
し
て「フェア」なジャッジや解釈を施し、これを検証する態度』というようには、一度もなされたことはありません。
考えてみれば、亀田興毅に対する日本人のバッシングは、アンフェアな判定に対する抗議の情でした。またそれに
油を注いだのが、敗れたランダエタ選手に対
し、その健闘を讃えようともしない亀田興毅とその取り巻きたちのスポーツマン精神を逸脱した態度だったのです。通常、どんなに試合前に、いがみ合っていた
選手
同士でも、いったんリング上での戦いが終われば、互いの健闘をたたえ合うのがスポーツマンシップというものです。私はこれを見て日本人が、素朴な正義感に
打たれて、「何だよ亀田は」と
亀田陣営に立腹したのだと推測しました。
義経と頼朝のことに限定してみれば、誰が見ても平家追討の最大の功労者は義経です。しかし当の義経は、公正な
る評価を受けないばかりか、反逆者の汚名を
着せられるという陰険な追い落とし工作まで受けてしまいます。発端は、勝者に対する公正なジャッジメント(判定)がなされないところに、判官贔屓という心
情の
発生源はあったということになります。そこから民衆は、余りにも執拗な頼朝の陰険さと陰謀に対し、「そこまでやるか!」ということで、頼朝の冷たさに対し
強い怒りを覚えたのです。
結論です。亀田興毅の世界戦の不公正なジャッジから類推できることは、日本人の心の奥には、不公正そのもの
を、日本人・外国人というワクを越えて、正当に評価しようとする心情が眠っているということです。当然と言えば当然ですが、ボクシングの世界戦などは、国
対国の戦いの側面があり、どうみても、自国優位に見てしまう傾向が強いと思いますが、今回はそうではなく、「あんな判定で日本人として恥ずかしい」という
ような心情も、あの時にはあったように感じます。
これは「判官贔屓」の一般的解釈にも適用できると思われます。つまり「判官贔屓とは、立場の弱い者、あるいは
敗者に対する憐憫の情であると同時に、その人物の公正な歴史評価を求める日本人特有の心情」ということになるのではないでしょうか。
つづく
2007.1.15 佐藤弘弥
義経伝説
思いつきエッセイ