義経公鎮魂紀行としての
おくの細道


私はかねがね、「おくの細道」を読んで、”義経公に対する鎮魂の念が、どこかに隠されているな”という気がしていた。何度も繰り返し読んでいるうちに、最近その思いがいよいよ強くなって来た。「おくの細道」という作品に一貫して流れている亡者たちへの優しい眼差しは、芭蕉の無意識から発せられたものではない。それは明らかに意図的、作為的なものである。

果たして、松尾芭蕉は、「おくの細道」の奧に、本当に「鎮魂の念」を一種の暗喩として、意図的に潜ませたか、否か、それは以下の文章を読んで読者諸氏が自ら判断していただければ幸いである。

「おくの細道」を大きく前半と後半に分けるならば、まず深川から平泉入りまでが前半。そして平泉から大垣までが後半ということになるであろう。

旅の前半、芭蕉は、住み慣れた自邸芭蕉庵を人手に渡し、門弟の曾良と共に、東山道を一路、平泉に向けてひたすら歩いていく。日光を拝み、白河の関を越え、奥州に入り、義経公の伝説の詰まった奧の細道をひたすら北上する。そして平泉に入る。この道は、義経公が生前通算四回、そしてその御首がただ一度通った道である。

ここからが旅の後半部分となる。芭蕉と曾良は、平泉に入るやいなや、すぐに踵を返して、鳴子(宮城)を越え、出羽(山形)に入り、念珠の関を越えて、越後(新潟)に入り、北陸街道を海づたいに、越中(富山)、加賀(石川)と来て越前(福井)の敦賀へと辿り着く。この経路は、義経公が、兄頼朝に追われて京の都より、平泉に逃亡した際の逆経路にあたる。芭蕉の旅の経路を厳密に辿れば辿るほど、義経公鎮魂の旅の可能性は強くなる一方である。

ところで「おくの細道」に、こんな句がある。

 荒海や佐渡によこたふ天河

暗い日本海の上に美しい天の川(銀河)が横たわっている…そんな雄大な景色が脳裏にすぐに浮かんで来るような名句である。

「おくの細道」の旅を続ける芭蕉は、元禄二年六月二七日に奥州との関所である念珠(ねんじゅ)の関を越え、越後国(新潟)に入った。折から天候は雨模様が続き、芭蕉はその湿気と暑さのために、体調を崩していた。ずっと書いていた旅日記も書けないほど、芭蕉は衰弱していた。

それでも何とか同年二年七月四日夜、出雲崎に着いた。この「荒海…」の句は、その時の状景を詠んだ句と思われているが、不思議なことに、この時、出雲崎は大雨が降っていて、天の川は出ていなかった。曾良日記でも「申の刻、出雲崎に着く。宿す。夜中、雨強く降る」と記されている。芭蕉は、何故自分の目で見もしない、荒海の日本海に銀河が横たわるという句を詠んだのだろう…。

芭蕉は推敲の鬼である。草稿を書いては捨て、捨てては書く。今日「おくの細道」の草稿と思われる「銀河の序」という小さな文章が残っている。その中で芭蕉は、次のように綴っている。

げにやこの島は黄金あまたわき出て、世にめでたき島なむ侍るを、昔今に至りて、大罪朝敵の人々遠流(おんる)の境にして、物憂き島の名に立ち侍れば、すさまじき心地せらるる

要するに大意は、佐渡島という島は、黄金の出る実に豊かな島と思われているが、大罪や反乱の罪によって、流された怖い島であって、実に恐ろしい気がする、と云っているのである。

ここで義経記に詳しい人なら、義経公が平泉へ逃げる途中、船で佐渡島に渡ろうとして波が荒くて接岸に失敗したことをすぐに思い出すであろう。その頃、ともかく義経公の運命は曲がり切っていた。大物浦での遭難は、平家の亡霊のせいだと云われているが、この佐渡島でも、平家の亡霊たちは、義経公の前に立ちはだかり、日本海の波の間に間に現れたのかもしれない。

そんな怖い思いを想像しながら、芭蕉は眠り付けなかったかもしれない。それほど芭蕉が着いた時の出雲崎は大雨が降っていた。だから天の河なぞは、見えるはずもない。ところが芭蕉は、最終稿である「おくの細道」では、この「すさまじき心地せらるる」の文章をすべて捨ててしまい、捨てた替わりに、こんなきわめて短い文を置いた。

鼠の関(ねずのせき=念珠の関)を越えれば、越後の地に歩行を改めて、越中の国市振の関に至る。この間九日。暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。

 文月や六日も常の夜には似ず
 荒海や佐渡によこたふ天河

こうしてまったく別の出雲崎のイメージが出来上がった。さらに芭蕉は、文を短くした上に、「文月や」の句を導入し、先の「荒海や」の句と並べている。全体を七夕の夜の目出度き雰囲気の文にまとめてしまった。

通常この「文月や」の句はこんな意味に解釈される。

七月六日は、常の夜とは違う風情がする。それは明日は、七夕で、年に一度、あの天の川で牽牛と織女が出会う目出度き日であるからだ。
でも私はこれでは意味がまったく違うと思うのである。それは先の草稿の「すさまじき心地せらるる」という心境から云っても、あり得ない解釈である。私のこの句の解釈は、次のようになる。
七月になったのだなあ、この六日間というもの、体調を崩して通常の感覚ではいられなかった。旅日記も書けなかったのだから。
この間、夜も寝られなかったかも知れないし、悪夢にうなされたことがあったかも知れない。ともかく芭蕉はこの六日の間、普通の心理状態ではなかったと推測できる。

おそらく、初案で、日本海と佐渡島に対する「すさまじき心地」を表現しようとした芭蕉であったが、この気持ちを抑えて、多くを語らずこの「荒海や…」の句の中に、自らの心境を潜ませようと意図したのであろう。だから、この「荒海や…」の句は、奥の意味として、次のように解釈されるべきである。

幾多の人々が、佐渡の荒海に飲まれて横死した。その人々が、天上の星となり、天の河となって光輝いている。(もちろんこの作の奥の奥には、非業の死を遂げた義経公への鎮魂の気持が、そっと供えられている・・。)
「荒海や・・」の句のわずか17文字に、永遠の景が封じ込められているように感じるのは私だけではあるまい。しかもその言外に源義経という稀代の武将に対する鎮魂の情までをも含ませていたとしたら、それはもう17文字の芸術家松尾芭蕉の驚くべき創意というしかない。

義経公の人気は、元禄当時も根強いものがあった。しかし俳諧の宗匠ともなれば、その辺の心情を容易に明かせなかったのは想像するに難くない。要するに天下の松尾芭蕉が、町衆と同じように判官贔屓の持ち主では、格好が付かない。そこで芭蕉自身の義経公鎮魂という思いは、言葉の奥に秘されたのである。それでもその旅の経路と訪れた旧跡、そして何と云っても17文字の句の中に込められた意味をよくよく考えてみれば、彼が義経公の鎮魂をしようとしていることは否定しようのない事実である。何故、このことを二百年以上、誰も指摘しなかったのか。不思議な感じさえ受けるほどである。

芭蕉の句によらず、紀行文によらず、芭蕉芸術の奧は途方もなく深い。それはあたかも人間精神という原始林を目の当たりにする思いだ。ある芭蕉研究者はこんなことを云っている。

「芭蕉の遺した作品は、今も成長過程にある」
義経伝説は、「おくの細道」の中でも確かに生きている。そして今この瞬間にも刻々と成長を遂げているのかもしれない。義経伝説畏るべし。芭蕉芸術畏るべし。そして日本文化畏るべし。佐藤

 


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2000.6.1